2010年9月27日

SONYのカタログで昔のことが甦る

sonycatalogue01.jpg所有:TOMIOKA Takumi

世界のソニーが日本の会社として出現したのは昭和21(1946)年でした。まだ日本は戦争に負けた悔しさから、国民上げて豊かさを求めるのに必死だったと思います。当然、電化製品は贅沢な時代であり、娯楽といえば精々真空管式の木箱ラジオでNHKで放送されていた浪花節や三つの歌やラジオドラマを聴くことでした。そんな頃に世界で先駆けてトランジスタラジオを開発し売り出したメーカーがソニーだったわけです。設立当時の社名は東京通信工業で昭和33(1958)年からソニーと変更されました。その後にソニーは躍進を遂げて今や世界中の多くで製品が愛用されているわけです。

sonycatalogue02.jpgこのカタログは、昭和34年頃に私がラジオ宣伝を聴いていて直接ソニーから取り寄せたものです。ソニーが始めてトランジスタラジオの販売を開始したのは昭和31年のことです。当時はカタログも貴重でありたった1枚の粗末な紙に両面印刷がしてあり、この写真は表面です。裏にはラジオの仕様が1色で載っています。この時代にはカタログはあまり家電屋さんには置いてなくて、自分で返信用切手を同封してメーカーに請求するのが普通でした。そのために宣伝の最後には必ずカタログの請求先が放送されるわけです。

カタログの大きさは183mm×123mmです。

2010年9月26日

斎藤秀三郎の英和辞典が人気

saitouhide02.jpg撮影:TOMIOKA Takumi
(iPhone使用)

斎藤秀三郎と言えば私が昭和42年頃に購入しかなり長い間使用した英語辞典である。この辞典は当時の学生には非常に人気があり、活字(書体)も古いままの物であったが内容は非常に濃くて熟語が適切に使用してあった。最近になり、また引っ張り出し、手垢で汚れたままのケース入りを丁寧に眺めた。赤鉛筆で薄く下線が引いてあるので当時に勉強したことが一気に蘇ったように思う。
 さて、まだ使っている人が居るのかなと思いながらネットで検索してみると、アマゾンでまだ中古本として販売されておりビックリです。しかも、1997年発売の復刻版でした。何とそれが中古本にもかかわらず、どれもが2万円以上するではありませんか。当時もこれは価値が出そうだと思ってはいましたが、まさか2万円を越える価格で取引されているとは。ちなみに私が購入したものは昭和42年で¥1500です。言えることは岩波書店から出版されたものには将来価値が出ることが多いようです。


saitouhide03.jpg 
正式には下記の書名です。 

熟語本位 英和中辞典 (著)斎藤秀三郎  (発行)岩波書店

 アマゾンのサイトも示しておきますから覗いてみては如何でしょうか。

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/400080006X/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&qid=1285574256&sr=1-1&condition=used

2010年9月25日

altair8800とビルゲーツさん

altair01.jpg撮影:TOMIOKA Takumi

コンピュータを動作させるには数字の0と1からなる2進数が並んだ命令を一個づつ電気信号(パルス信号)に変換させる必要があります。でも、コンピュータには瞬時にして解読可能な2進数の羅列データも人間が書くとなるととても大変です。しかも当初は4ビット(2進数が4個の組み合わせデータ)で動く簡単なコンピュータでしたから問題はなかったのですが、だんだんとビット数の大きなコンピュータとなり人間の力では不可能になって来たわけです。そこで、もう少し人間が理解し易い命令で動かないものかと、その変換器の要望が強くなったわけです。
その変換こそ、私たちが言う言語なのです。言語には目的に応じて様々な名称のものが開発されました。なかでも初心者用として当時に人気があったBASIC言語は大型コンピュータやミニコンでは当たり前で、何とかマイクロコンピュータレベルにも使用出来ないかというわけです。

言語を使用してコンピュータが理解できる方式には2つあって、一つはコンパイラ方式もう一つはインタプリタ方式です。このインタープリタ方式で2進数に変換する変換ソフトは実にアマチュア的な考え方で独特のものだったわけです。

altair02.jpg子供の頃からアマチュア無線などを楽しみながらコンピュータにも明るい米国の実業家がいます。大富豪のビルゲーツさんです。高校時代に友人と2人でマイクロソフト社を立ち上げた起業家であり経営能力と技術者能力の両方を備えた数少ない人だと思います。時代は違いますが、ちょうどHP社を設立したヒューレットさんとパッカードさんのコンビと似ています。そのビルゲーツさんは、このインタプリタ方式で動作させる翻訳ソフトを開発して紙テープで販売をしたのでした。当時はアマチュアには紙テープが常識であり米国のASR33がアマチュア無線の間でもかなり使用されていました。とは言っても、そうたいしたことでは無く高級言語としてのBASICのにある代表的な命令のみで構成したTINY BASICというものでした。容量は4Kバイト(1バイトは半角1文字に相当するデータ)でした。これは当時人気があったアルティア8800(写真のもの)には願っても無い楽チンテープであり皆んなが待ち焦がれた商品であったわけです。 その altair03.jpgアルティア8800は米国のMITS社が販売していたもので、この機種は米国の多くのアマチュア無線愛好家には定番のものでした。モールス信号をテレタイプで送信するには欠かせないもので、その記事は当時のコンピュータ雑誌BYTEに紹介されております。そんなこともあり、彼はMITS社への売り込みに成功したわけです。ご存知の方もあると思いますが、当時のコンピュータは最初メモリ(記憶部分)にデータを入れないと全く反応が無いわけで、テープにあけられた8個が1組の穴データを読み取り装置で読み取ったのちに、コンピュータがそのプログラムにスタート信号を送って初めて動き出すわけです。どうやら彼は売込み契約を成立させてから開発に専念したという噂もあるようです。この写真のコンピュータは先日久し振りに火を入れましたが問題なくファンも大きな音を立てて動作しました。

altair04.jpgこのコンピュータは1974年に発売されてキットによるものでした。実に35年前の製品です。テレタイプ社のASR33も保有していましたが、さすが場所を取るので廃棄しました。説明書だけは原本を残しています。さらに詳しくこのコンピュータについて知りたければ下記のサイトに掲載されていますので参考にして下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Altair_8800

今年の3月に仕事の関係でビルゲーツさんと親しい方にお会いして、日本のパソコン創世期の話を約3時間に渡りお聞きしましたので機会を見つけてここで書きたいと思っております。

2010年9月24日

八重洲無線FT207が出てきました

ft207.jpg先日は休日が続き久し振りに自宅で整理をしていたら、昔懐かしいハンディ無線機が出てきました。八重洲無線は古いハムなら誰もが知るメーカーではありましたが、ここに数年のうちに無線機業界にも再編やら何やらで、純粋な八重洲無線の製品は販売されなくなったようです。

思えば、アマチュア無線を始めた頃に購入したHF機がFT101Bでした。その後にFT101Eへと買い換え現在も所持をしています。最近の機種はどれも付加装置が立派で信号を無線機内で加工したのちに鳴らしているようですが、この頃のHF機には何も付いていないけど、ゼロインした信号はガツーンと曇りの無い信号として飛び込んで来たものでした。

このハンディ機も八重洲無線の発売したものですが、当時はやりだしたPLLによる回路を搭載し、その頃に発売されていたサムホイール式周波数設定機と比べて一歩進んだ風に宣伝されていたと思います。八重洲無線最初のデジタル表示ハンディ機でした。

その後も、ハンディ機は多くのものを使用しましたが、大きさの点を除けばこの機種は非常に気に入っている一台です。現在はアイコムから出ているD-STAR対応機種D92を愛用していますが、忘れていたFT207が出てきたので懐かしく思って写真を撮ったというわけです。発売は昭和54年(1979年)です。当時は珍しかった小さな赤い数字LEDが並び周波数を表示するものでした。キーパッドで周波数を入力したり、周波数範囲を指定してスキャンをさせるとものすごく早く変化しPLL回路のすごさを体験したものでした。今では誰も驚くことは無く当たり前のように思える技術も、こうした少しづつ開発された流れを知っていると楽しいものです。

2010年9月17日

「キヤノン」好きならこれだけは知っておこう

もともとCANONはカメラメーカーとして出発をした。まだ日本にカメラ会社が少なかった頃の話である。今でも本社を東京三田においているけど、これには理由があります。

精機光学研究所というのが初代創始者「吉田五郎」氏が率いた当時の会社である。この会社には、親戚の内田三郎氏と内田氏の元部下であった前田武男氏が居た。彼らがこの研究所を設立したのは戦前の1933年11月のことであった。当時発売されていたカメラ雑誌「アサヒカメラ」には、その時の宣伝が載っているが非常にユニークな名文句である。「潜水艦ハ伊號、飛行機ハ九二式、カメラハKWANON、皆世界一」。

KWANONはカンノンと読む。創始者の吉田五郎氏は観音教の信者であったことからこの名前が付けられたのである。また、だから当初製作されたカメラにはこのKWANONが使用されたが、発売はされていない。ライカに対抗して作り上げたカメラではあったが残念ながら試作品に留まった。理由としては色々あったが、当時では部品を揃えるのも大変であったからであろう。また同じ経営者としてやっていた内田三郎氏の兄が日本光学工業(現在のニコン)の関係者であったために、日本光学工業からレンズ、距離計などの光学部品の供給を受けたのである。日本光学工業は既に有名であり、戦艦大和の距離計ファインダーなどを製造していた。こうした背景からようやく36年2月にはハンザキヤノンが発売された。なんとこのカメラのレンズは、ニッコール50mmF3.5標準レンズ付きであった。ニッコールレンズとういうのはニコンのレンズに使用される名称です。

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2010年9月16日

ニコンS3が復刻発売された

nikons3-01.jpg撮影:TOMIOKA Takumi
ニコンS3(2000年モデル)

ニコンは私の写真歴の中でも深く印象に残るカメラとなりました。若い頃、当時カメラファンに人気があった一眼レフタイプのニコンFに憧れたことがあります。その頃のカメラといえば精密機械扱いであり、腕時計と共に生活用品の中でも贅沢品の部類のひとつでした。時計やカメラはそう簡単に手に入る品物ではなかったものです。

ニコンFが新発売される少し前に、35ミリ距離計式カメラであるニコンS3やSPが発売されていましたが、これはとても高価で実物などは見れることがなかったのです。 当時に日本光学株式会社大井製作所でニコンS3を作っていたカメラ職人たちは既に高年齢になったことや、世の中で販売されるカメラが新型の一眼レフに変ってしまい、誰も高いS3など使おうという人はなかったのが現状でした。ところが、ニコンが西暦2000年を記念してそのS3を復刻したわけです。当時のカメラ事情を知っている人には驚きであり、再び購入チャンスがやって来たことを喜んだわけです。実際に手にした2000年モデルはもの凄く新鮮であり、むしろ当時の技術にはなかったほどの精度良さとレンズコーティングの良さが目立っています。10年も未開封でおいてあったので、まだフィルムを通していませんが、早めに撮影してここのブログで報告したいと思います。

 

nikons3-02.jpg自動露出機構も無くカメラの原点とでもいえそうなカメラですが、デザインには無駄が無く保存版に値するカメラです。最近は殆どデジカメにより撮影しておりますが、時にはゆっくり時間をかけてこのカメラとセコニックの露出計を使用しながら撮影してみるのも頭の体操に良さそうな気がします。

2010年9月15日

岩波写真文庫の果たした役割

日本の写真界は大きく3つに分別できます。一つは名取洋之助さん・木村伊兵衛さん・土門拳さん・三木淳さんたちが集まるいわゆる報道写真の系列、もう一つは、秋山庄太郎さんが得意とする女性肖像写真の系列です。後に盛んになった、前田真三さんのような絵ハガキ写真屋さんたちの風景写真分野の系列です。

これらどの分野も皆そうですが、弟子を育てながら今も日本写真界の柱となっております。特にニッコールクラブを創設した三木淳さん(最初は常任幹事でした)は初代ニッコールクラブ会長(1974年就任)そしてそれを木村伊兵衛さんへとバトンタッチして現在のニッコールクラブが継続しています。

当時は、写真などの贅沢趣味は普通の人たちの間では自由に楽しめなかったのです。なぜならば撮影用のフィルムは配給制であり、それも何かに関係した人たちでなければ殆んど入手不可能な時代でした。要するに、戦争に負けてしまった日本はすべてが進駐軍(連合軍)の支配下にあり、気軽にシャッターを押すという状況ではなかったわけです。

そんな中でも、名取洋之助さんが岩波書店に働きかけて編集させたシリーズ本があります。地方のカメラマンなどにも働きかけて、長い間にわたり出版してきたのが「岩波写真文庫」でした。土門拳さんなどは既にドキュメンタリー写真に専念していたのでまさしくぴったりの発表の場でした。実際にはこの写真の半分に折られたB6版で発行されて定価は¥100でした。大きな図書館ではまだ所蔵しているはずですが。

iwanami.jpgこれは272号で当時の日本の正月を記録した貴重な資料となっています。

写真は情報量がとても多いので,どれだけ文章で代用表現しようとしてもとても及びません。個人的に思いは違うけど、一枚の記録写真を見れば、すぐに当時の情景が蘇ってくるのは確かです。残念ながら文章表現でどれだけ作家が装飾しても、事実は伝わりません。かえってゆがんだ記録になってしまうような気がします。

2010年9月 8日

再びライカの話

leicaA.jpg撮影:TOMIOKA Takumi

ライカA型が発売されたのは1925年です。

当然、カメラ界には35ミリなどのフィルムは無かったのです。ではなぜ35ミリサイズが生まれたのでしょうか。35ミリは当時使われていた映画フィルムなのです。当時において映画界は盛んであり映画用のフィルムは比較的入手しやすかった。そこで、簡単に手に入るフィルムを使ったカメラが考案されたというわけです。フィルム送り用の穴が端にあり現在もその機構は変わっていません。ライカ判といえば35ミリ判カメラの代名詞であるのはその名残です。要するに証明用写真のサイズです。

このライカA型にはエルマーという50ミリの標準レンズ付で発売されたこともあり、この種のカメラの標準レンズ50mmはこの時に定着したようです。人間の遠近感に近いのはもう少し長い60ミリ程度らしい。もう一つの特徴は沈胴レンズということです。この写真のように常にレンズが前に飛び出ているのではなく撮影時に手で引っ張り出す設計だったわけです。撮影時にこれを忘れると全部ピンボケになりせっかくの自信作が後で思わず失望に変わることがよくありました。

 

leica02.jpg最近ではライカも時代に押されて、デジカメが発売になりました。電子回路にはそんなに強くないメーカーとは思いますので、やっぱりライカファンはレンズに魅力を感じて使用しているのではないでしょうか。ズミクロンやエルマリートなどは本当に味がある良いレンズです。

この2枚の写真は、久し振りに風通しをしようと思いながら引っ張り出した時(2007年4月27日)に撮影したものです。

あこがれの通信型受信機 (トリオー9R59)

9R59-02.jpg所有:TOMIOKA Takumi

通信型受信機が欲しくて堪らなかった頃があります。中学生から高校の時代でした。その頃の子供の遊びといえば、きれいに手入れをしたボロ自転車を乗り回す程度しかなかったのです。 同じ頃始めたアマチュア無線の趣味は自転車とは違った楽しさがありました。 なかでも海外放送を聞いて放送局にレポートを出すと自宅に綺麗な「べリカード」が各放送局から送られて来るものでした。 当時は海外から郵便が届くことすら珍しかった時代だったので、そのべりカードが届くと本当に嬉しかったものです。


その時代に特に人気があった受信機が写真の9R59でした。 トリオ(現在のケンウッド)から発売されていたもので、 アマチュア無線では憧れの人気機種でした。定価で¥19800だったと思います。それも、完成品ではなく部品が詰められたキット形式での発売でした。私の場合には、これを手に入れることすら出来ず、結局、雑誌などを見ながら同様の回路図で自作したわけですが、周波数帯を変えるとコイルを差し替える必要がありました。(コイルパックは高かったのでプラグインボビン式のコイルを採用)今とは違い、各部品を手に集めるのにかなりの時間を費やすのが普通の時代です。

 

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2010年9月 4日

レピータのこと

アイコム社のホームペーには過去に活躍された先輩ハムたちの紹介があります。

その中でも、元JARL会長でありJARLの全てを知っておられる原さんのページには、日本でレピータが開始になった経緯など当時の日本のハム界についての説明があります。

http://www.icom.jp/beacon/backnumber/ham_life/hara/index.html

 今は古い話となりますが小渕元総理大臣のことです。知る人も多いと思いますが小渕内閣の閣僚には数人のアマチュア無線家が含まれていました。例えば、JA5FHB関谷建設大臣などです。関谷氏は現在も国会アマチュア無線クラブの会長であり、小渕さんと共に国会ハムクラブを立ち上げた一人です。当時の小渕総理は、アマチュア無線にとても熱心で遂には、国会の中に無線室を作りハムクラブを構成していました。その頃から、国会議員の中にも、アマチュア無線の存在が具体的になり、社会でのアマチュア無線での活躍が大きくマスコミなどで報じられるきっかけになったようです。

小渕元総理大臣の呼出符号はJI1KITでした。その他にも、小野清子参議院議員の7M3URUや中原 爽参議院議員のJA1BNB、中村正三郎(JI1LVO)さん、森下泰(JR3NVS)などの議員さんも当時のメンバーでした。
この年の11月に私は田中郵政省電波監理局長にレピータの早期実現を陳情するなど積極的に動いた。その結果、翌57年(1982年)1月に郵政省は各地方電波監理局に中継器設置許可の通達を出し、3月に第1号機がJARL本部事務所近くの分室(第2イソノビル)に開設された。
小渕さんが残してくれた業績として、レピータ許可があり現在何気なく使用しているアマチュア無線のレピータはこの時に要望して許可になりました。それまでは、政府はレピータのように中継器はプロ以外には許可されておらず、かなり政治的に勝ち取った経緯があります。
レピータはもともと、アマチュア無線専用衛星を日本でも打ち上げたいというJARLの要望から、当時の郵政大臣に働きかけたものでした。アマチュア衛星とは小さな中継器ですから、それ以前にどうしてもレピータ利用の許可を与えておかなけばならなかったわけです。こうして、JARLが管理するレピータが始めて許可になり法的にも改正が加えられたのです。東京巣鴨にあるJARLに設置された第1号のレピータ局JR1WAの受信周波数は434.92MHz、送信は439.92MHz、電波形式はF2・F3、出力10W。また、レピータ局の設置、運営については、JARLが設置・監理する「直轄局」と、団体が経費を負担し設備を連盟に無償貸与することを条件に連盟が開設する「団体局」の2種にわけることにし、全国の地方本部には「直轄局」が設けられました。一方、10月1日に第1回の「団体局」の受付を開始し、結果的に130局が承認された。「団体局」の第1号は福岡県甘木市に設置されたJR6WBであり、58年4月に運用を開始した。また、私たちが管理する「白子レピータ」も当時は439.60MHzにて開局しましたが、同じ周波数にある岡崎や美並村のレピータと競合したので、やむなく439.70MHzに変更したわけです。なお、現在は全国に約1650局以上のレピータが設置されているはずです。これも、小渕元総理大臣のお陰であり、私たちハムは故人に感謝する気持ちを忘れてはなりません。また、一人娘の優子さんも小さい頃にハムの免許を取得されており、お父様のアマチュア無線の熱心さは十分に理解されている現役議員です。

東京都心は工事中が多い

丸の内工事.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
工事中の東京駅丸の内側

東京都心の工事は2000年頃から盛んになり、今なお工事中の個所が多い。この写真は赤レンガ作りで有名なJR東京駅丸の内側ですが、すっかり工事用フェンスに囲まれていてがっかりさせられます。生まれ変わると駅舎は今まで通りステーションホテルとして使用されるようです。2012年完成予定。

東京駅八重洲口.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)JR東京駅八重洲口

八重洲口も同様、工事中でありかつての大丸デパートは今では姿を消しており、新幹線ホームが丸見えです。新大丸はほぼ右手横に立て替えられて既に昨年から営業を開始しています。以前の光景では必ず中心に八重洲大丸の建物が写り込まれましたが。

スカイツリー.jpg撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
建設中の東京スカイツリー428m時点 

一度スカイツリーを見ようと思い地下鉄の押上駅で下車しました。浅草の近くです。階段を上り地上に出て辺りを見ましたが特に高いものが無かったので、少し探しましたがよく分りません。さらに進んで首を回すと何と工事中のスカイツリーが眼に留まり、これかっと言うことで撮ったのがこの写真です。ニュースや雑誌などでは綺麗な光景が多いのですが、あえて見たままのものです。このように電線が多くあり、すぐ前には関連施設が工事中であり、スカイツリーが428mもあるとはとても感じることが出来ません。

やがて完成すれば、今とは違った見ごたえのある地デジ専用のタワーになることでしょう。

歩行者天国

銀座歩行者天国.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
銀座4丁目交差点

そもそも歩行者天国という響きの良い用語は、どうやら1966年に朝日新聞が使 用したのが始まりのようである。1970年当時に自動車の排気ガスが騒がれ、せめ て土日くらいは繁華街において乗り入れを規制して綺麗な町作りをしようとしたの が始まりのようで日本ではここ銀座のものが基準となったらしい。この運動は一時 全国的に広がりをみせ各地に○○天国なる新語を生み出した。
ちょうど東京に仕事に出かけたので久し振りに銀座に立ち寄ったところ、以前とは
違い閑散としていた。それもそのはず今年の夏は猛暑が続き、この日も気象庁は 35度を超える予報を出していたのである。それも観測史上初めてという記録続出 であり、普段は人気がある銀座の歩行者天国もこんな様子である。この場所は銀座 では一番知られている服部時計店のある交差点で「銀座4丁目」と呼ばれ流行歌 にも出てくる。服部時計店も改修工事が終わり工事幕が取り除かれ以前の光景を 取り戻した。