2019年1月20日

レコード盤が懐かしい

20190119 001.JPG一般にレコードと言われていた時代の話です。今はすっかり世の中がデジタル媒体に変わってしまい、この頃の音楽用媒体のことを知る人も少なくなりました。今と同様に新曲が出ると爆発的に売れた曲もありファンの貴重な宝物となっていたものである。
このレコード盤は、当時に人気があったNTV系の連続ドラマ「池中玄太80キロ」という番組のテーマソングを人気女優「杉田かおる」さんが歌っていたもので、「鳥の詩(うた)」という曲である。
このジャケットの撮影は、女性を撮るとナンバーワンの写真家、大竹省二さんが撮影されました。そして、レコード会社は、今は買収されて消え去った「ラジオシティ」というレコード会社です。

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このレコードはシングル盤と呼ばれていて、中心に大きな穴があいておりレコードプレーヤーに置いてモーターで回転させるものであった。アナログ時代にはこういった方式があちこちで採用され、これらを修理する職人技を持った人も多かったのである。今のデジタル職人とは違い、日本やドイツやスイスが誇る技術が映えていた時代である。特に、トーレンスなどの名機は今でも人気が高い。

デジタルが普通になろうとしている現代に、再びレコードが復活されることはないと思うが、過去に発売されたものを大事に再生するファンが増えてきているということである。

部屋を整理していたら昔の懐かしいシングルレコードが沢山見つかり当時の事を思い出しました。

2019年1月18日

BCLファンに人気のNRD505

20180118 001.JPGBCLとはブロードキャスティングリスナーの省略語で海外放送を楽しむ人たちの事を指します。1960年代にはブームとなり熱狂的な愛好者も多くいました。もちろん、まだインターネットが無かった時代です。遠く海外からの放送が聞こえて来ると地球が狭く感じたものです。また、それが日本語放送ならなおさらです。外国の放送局も当時は日本語の時間がありました。米国ではVOA(ボイスオブアメリカ)、英国ではBBC(ブリティッシュブロードキャスティングコーポレーション)、ドイツではDW(ドイチェベレ)、ロシアではモスクワ放送、中国では北京放送、オーストラリアではABC(ラジオオーストラリア)などが特に入感が強くBCL登竜門でも挑戦出来ました。
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そんな海外放送ですが、今では日本語放送は少なくなり隣国からの局しか見つかりません。
しかし、写真のような高級受信機にアンテナを繋ぐとビックリするほどの局が飛び込んできます。
この受信機は、JRC日本無線の物ですが、アマチュア無線用に発売されたものです。
良く似た機種でNRD515がありますが、最初に発売されたこの505の方がなぜか人気があります。高価なものであり発売された台数も少なかったからでしょう。
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受信機の性能は、感度・分解度なども当然ですが普段聞いている時には疲れないのが何よりです。業務用通信機を製造しているメーカーがアマチュア無線向けに販売したものであり、さすがに優秀です。

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日本のNHKも数ある世界の放送局の中では有名で、アフリカのガボンにある送信所や日本国内にある送信所から強力な電波を発信しています。ラジオジャパンという名称で世界にファンがたくさん居ます。私も以前、山田耕嗣さんが作られた「日本短波クラブ」に所属していましたが東京ハムフェアではたびたび山田耕嗣さんとお話が出来て海外放送の魅力を感じながら資料を入手していたものです。

現在は、海外放送はネット配信がされており、いつでも聞けますから一度は聞かれてはどうでしょう。
何か発見があると思います。

2018年12月16日

4Kと8K放送がスタート

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平成12年(2000年)に日本のテレビは全てデジタル放送に切り替わった。あれから18年今年の12月1日に今度は超精細な4Kと8Kの放送を開始した。今回も開始は12月1日である。
この写真は、テレビ画面を記録したものであるが式典の模様は生中継で放送された。

ところで、4Kや8KはK(ケイ)と呼ばれる単位を基準にしているがK(ケイ)とはk(キロ)と違いコンピュータで用いられる単位である。デジタルの世界は2進数で構成されていて全てが0と1を用いた集まりである。そのことからK(ケイ)は10進数に直すと1024となる。今までから私たちは1000のことをキロと呼んでいるので1024という中途半端な数を敢えてK(ケイ)と名付けている。
テレビのBS放送で用いられるフルハイビジョンは2Kなので、この数字から鮮明度も察することが出来る。

以前、東海総合通信局の式典に招待されたことがある。その会場となったホテルの式典会場で初めて8Kテレビ放送を見たが、それほど実感はなかった。そのメリットがよく分からなかったのである。しかし、今回これらの放送が開始されることでソフト面で大きく広がりをみせる。映画好きの人や臨場感を求める人などにとっては自宅で映画館級の画像を楽しむことが出来ると聞いている。

2020年東京オリンピックや2022年大阪万博までにどの程度普及するか興味がある。

2018年10月11日

AMZNが大きく下げている

10月10日のニューヨーク市場は大変な下げでダウもマイナス831ドルで終わっている。史上3番目の下げ幅らしい。中国との貿易摩擦とか金利上昇不安とか騒がれているが、昔と違って最近の売買はコンピュータによるシステムトレードであり、その反応も過剰に出ることが多い。多分、数日後には大幅高になるのではないだろうか。世の中便利になったのは有難いが、金融取引ではどうも反応が早すぎてゲーム感覚で行われることが日常になってきている。
ちょっとした話題にも敏感に反応して直ぐに株価に出てしまう。それをコンピュータ画面で見ている多くの人が直ぐに手を出し、さらに上げ幅を増大させる。こんな繰り返しがネット社会で起きているのが現状である。反面、手法を勉強して上手く売買すると億万長者も出やすいのである。
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さて、今朝のニュースはこの米国株安がトップニュースとして取り上げられることは間違いない。
写真は、昨晩のAMZN(アマゾンドットコム)の株価チャートであるが115ドルも下げている。一時は2000ドル越えをした銘柄ではあるが、こんな時は真っ先に売られてしまい現在は1755ドル25セントとなった。多分すぐに戻すと思うが、携帯でトレードステーションの画面を見ていて変化を予想するのも勉強になる。 今日の日経225も当然下がるだろうがどこまで下がるかが興味深い。日本企業の業績は良いので大丈夫と思うが、いったんは大きく下げて最終はある程度戻すのではないでしょうか。

2018年10月 9日

終段はRCAでドライバーはテレフンケン

20181009 002.JPG最近になり2A3の音色が懐かしくなり修理にかかりました。これまで問題無く動作をさせてきた真空管アンプですが、表面のメッキ部分にくすみが見られるようになりレストアします。
アンプ類には比較的大きなコンデンサー類が使用されていて長期間保管が続くと内部の薬品が化学変化を起こし静電容量が抜けてしまいます。分かり易く言えば電気を蓄える力が無くなります。そのため回路における電圧の不安定から色々な症状が見られ正しい音にならないわけです。
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このアンプには米国RCA社製の3極菅である2A3(にーえいさん)が2本使われて約10Wの出力がでます。何だ少ないと思われるかもしれませんが、耳で聴いた音量は真空管アンプではトランジスタやICアンプに比較しても遜色なく普通の部屋なら充分過ぎます。またドライバーは当時西ドイツのテレフンケン社で製造されたECC82です。確か日本や米国の規格では12AU7です。

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また写真の様に、ズッシリしたトランスが整理良く並んでおりすっきり感があります。
このトランスは日本のマリックというもので45年前には非常に高価だったためにあまり出回っていません。このアンプを販売するのに当時のONLIFEリサーチ社(その後、ダイナベクターと改名)が注文で作らせたものです。

ここで潮晴男の「音の匠」が作成されているホームページにマリックトランス開発者のことが紹介されています。
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神田さんは東京工業大学の電気工学部を卒業した理系の人だが、弱電とのかかわりは薄く、当初は無線関係の仕事に従事していたという。その後、松尾電業社に入社しトランスの設計に携わった。長年オーディオに勤しんできた人ならこの会社がどんな会社なのかお分かりのことと思うが、知らない読者のために記しておくと、松尾電業社はマリック・ブランドでハイグレードな電源トランスや出力トランスを作っていた。オンライフ・リサーチというオーディオメーカーが出力管に名球「300B」を使ったアンプを製作していたが、その真空管の隣にマリックのトランスが誇らしげに鎮座していたことを思い出す。
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話を戻しますが、このアンプはシャーシーが真ちゅう板で作られているので錆は浮いていないのですが、長年箱に入れずに放置状態だったので表面に汚れが付着しています。この汚れを取るのに「ピカール」という研磨剤を使うことにします。
昔から使用している金属専用の研磨剤ですがペースト状で使いやすく時間を掛けてじっくり磨くには便利なものです。
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元通りにするには多分半年以上はかかると思いますが機会があればここで再び紹介します。

2018年10月 7日

miniケンジントンのこと

kensington-1.jpg確か2000年を最後に生産が終り、新型ミニへとデザインが変わったクラシックミニであるが、いまだに問題無く乗れている。多くの人はこのタイプの車を見かけるとミニクーパーと思うようであるが実はミニにはクーパーというスポーツタイプとこの写真のようにケンジントンと呼ばれる大人しい車種が販売されていた。ケンジントンというのは英国王室がある地域の名称であるが、この車種は昔ダイアナ妃が買い物用にローバーに造らせたということを聞いたことがある。英国人はローバーを誇りに思っていてチャールズ皇太子もレンジ・ローバーに乗っています。
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1998年に初回登録をされたケンジントンに乗っていますが毎回3000kmほどでこまめにオイル交換をしており整備も怠らないので今まで故障知らずでいます。ショックは純国産の物に交換してあり簡単に自分で調整できます。クラシックミニ用の部品は国産でまだまだどんどん新しいものを製造していてほぼどんな部品でも入手出来ます。
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全体のイメージはゴーカートの乗り心地を改善した車です。とにかく扱いやすい。しかも、ケンジントンはクーパーと違い、オートマチック車でありキャブレターもコンピュータ制御で暖気運転も最小ですみます。私の場合は、速度は押さえて走るのでエンジン音も気にならずマフラーも純正で静かです。
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解説本もたくさん出ていて車好きの人なら、自分でいじれて楽しい車ですよ。
私の場合、風景写真撮影で狭い山道に行くことが多いので助かります。

2018年10月 5日

Heath Kitの古いエレキー

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アマチュア無線を使って交信するには電話(声を送る交信)や電信(モールス信号で交信)などがありますが、何と言っても小さな電力で相手局とつながる電信に人気があります。しかし、電信ではモールス信号を正確に打てる技術が不可欠となり、昔だと電信専門の学校などではかなりの訓練をしたようです。それもそのはず、昔の日本電信電話公社(現在のNTT)には電報窓口があり、急ぎの連絡は全て電報が主流でした。今では携帯電話などが発達して離れた外国でさえ瞬時に伝言を送ることが出来ます。
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これだと趣味として楽しむには少し寂しいようです。不便ですが昔ながらのモールス信号による通信は極めれば最高です。私の知人などNHKの21時のニュースを見ながらモールス通信で米国のアマチュア無線家と交信しておられる方もいます。

ところでモールス符号には世界共通の取り決めがあり、長音(長く出るツー)と短点(短いトン)が正確に出ないと相手に間違って理解されてしまいます。アマチュア無線では略符号というのがあり、例えばQTH(送信している場所のこと)やQRA(名前)で送ります。乱れた信号を送ると内容が正確には理解されずとんでもないことにもなりかねません。
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そこでアマチュア無線の交信では符号を正確に送ることが可能な機器が工夫されて現在でも多くの愛好家がいます。昔の器具を電鍵(でんけん)と呼んでいますが、これはエレキー(エレクトリックキーヤーの略)と呼ばれ昔からアマチュア無線では人気があります。
エレキーは自作される方も多く昔は米国ヒースキット社からは沢山のキット製品が発売されていました。この写真は1960年当時に販売されていたHD-10という機種です。昔、アメリカのオークションである有名なeBayで落札して輸入した物ですが今でも問題無く使用できます。
見た目は不格好なのですが実に機能的でアマチュアらしい品物です。取扱い説明書はもちろん英語ですが、非常に分かり易いもので多くの図解で紹介されています。
とても50年以上経っているとは思えない物ですが、大事に使えば何十年でも使用できるという事を教えてくれる品物です。最近の製品は回路がどれもIC化されて専用部品が無くなると使用できません。外観は新品同様でも廃棄しないと駄目なものが多いので困ったものです。

2018100 002.JPG背面には無線機に繋げる端子が出ています。単独でも練習ならOKですが。

2018年10月 4日

SONYのCLIEはPDAでした

20181003 001.JPG米国アップル社が日本でiPhoneを発売したのは3GとなるiPhone3だったと思います。それまでは携帯電話とPDAと呼ばれる端末を接続または赤外線接続して使用するのが日常でした。なぜか日本では最初のバージョンは販売されずに名称借用のトラブルに発展した経緯があります。日本には電話機メーカーであるアイホンが既に有名でした。その後、アップル社はアイホンと和解しています。

携帯電話にPDAを合体させる方式は確かにアップル社のアイディアでした。詳しくは米国電話会社AT&Tとの共同研究で生み出されたはずです。しかし、それ以前にもこのPDA技術は使用され中心となるOSは何社にも引き継がれていたのです。
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このPDA概念を最初に考案したのは、米国にあった小さな会社だったPalmという会社です。そこが商品名をPILOTという名称で製品化したのですが日本にあるパイロット万年筆から訴えられて実際の製品名はPalmとなり、この頃搭載していたOSは一気に人気が出てPalmOSはPDAの代名詞となった訳です。
しかし、技術者集団の小さな会社はすぐに大企業に買収され、米国の有名な文具メーカー3Mブランドとして発売されていました。私もこの頃に購入したPalmPilotをまだ持っています。
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やがて、契約が切れたOSもその後に日本のソニーが買い、ソニーはアップル社に売却した筈です。そしてソニーはPDAから撤退しゲーム機プレステーションに集中しました。
アップル社は独自の技術を上手く統合して魅力ある携帯電話iPhoneを開発したわけです。その頃、いつしかスマートフォンという用語が日本では流行し始め現在でもガラ携と対比して使用されています。

以前、アップル社からは小型の端末が数種出ていますがいずれも失敗でした。アップル社の売りはデザイン重視であり使い勝手がイマイチだったのです。

いづれ書きますが、アップル社が考案したように思われているアイコンは元は米国ゼロックスのパロアルト研究所で開発され試行的に使用されていた技術だったはずです。スティーブジョブズはここでインターンシップでお世話になっておりヒントを得たようです。

2018年6月19日

英語の12月を表すDECEMBERはラテン語の10

紀元前753年にヨローッパではローマ歴が設けられた。当時の勢力者は企画に競って参加し暦をスタートさせたのである。

そのスタートをした月となったのは3月である。その3月はMARCH(行進やスタートの意味がある)なのである。全ての物が冬の寒さから解放され動き出すと感じたらしい。

そして1年を12ヶ月として、それぞれに名称が付けられた。3月スタートの暦からすると、12月は10番目すなわちDECEMなのである。DECEMはラテン語である。さらに、1年の最後は2月となり、この月で1年間の日数調整を行ったというものである。そのために2月は29日となり他の月より少ない。2月を表すFEBにはラテン語の綺麗にする(調整する)という意味があるらしい。

また10月がOCTなのは年度の8番目(OCTはラテン語の8)11月はNOVはラテン語のナイン(9番目)ということである。

これでお分かりかと思うが、9月のSEPTは7番目(セブンのラテン語)から来ている。
では、4月はどうなるでしょう。当時の権力者たちの名前から来ているらしい。春はとても美しい季節。その美しさを「美の女神」である Aphrodite(アフロディーテ)に捧げる月としたことが起源であるようです。このように8月まではそれぞれの神話に出てくる神様の名前であるらしい。

2017年12月31日

ご当地マンホール

12月29日久し振りに伊勢神宮にお参りした。高速に乗らなくても自宅からは車で1時間程で着ける。市営の有料駐車場(2時間以内で¥500)から約1km歩くと内宮の前に出る。この通りは、おはらい町と呼ばれており昔から参宮の際には誰しもが通る道路である。この日は平日とあり非常に人出も少なく楽に歩くことが出来た。内宮前広場に出る寸前に道路上には「ご当地マンホール」があり伊勢のデザインが施されている。皆さんが上を通るのでかなりすり減っているが何とか色も残っていた。
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仕事でマンホールの強度とデザインの関係を調べたことがあるが、改めて見ると何十年来ほとんど変化が無いことが分かる。
さて内宮にお参りして戻る途中お昼時間でもあったので、久し振りに「てこね寿司」を食べることにして、いつもの「てこね茶屋」にあがり¥980のセットで昼食としました。
てこね寿司とは、昔から漁師が沖に出るときに持って行く弁当の様ですね。酢飯にまぐろなどの魚の身があえてあり中々美味しいと評判です。色々な「てこね寿司」を食べたことがありますが、この店が私の口にはピッタリで気に入っているのです。味付け最高でした。
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明日は元旦です。皆さん良いお年を。


2017年1月 4日

山田洋二監督の伝えたかったこと

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昔、購入したDVDセットです
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 山田洋二監督と言えば思い出すのが正月映画の「男はつらいよ」である。他にも吉永小百合さん主演「キュポラのある街」など数多い。映画監督と写真家とは様子が違うが写真家で言えば、土門拳さん、三木淳さんや木村伊兵衛さんのようなドキュメンタリー派の人である。

 山田洋二さんの作品にはどれも記録性がある。当時の日本風景をしっかりとフィルムに収めながら、その中に人気のマドンナとして登場女優を使っている。しかも毎回その風景は地方の情景であったり、当時の人間関係であったりすることである。山田洋二監督の傑作シリーズ「男はつらいよ」は昭和44年8月27日に封切られて、平成28年で何と48周年を迎えた。非常に残念ではあるが主演男優である渥美 清さんはこの世に居ない。私は、以前シリーズ全編をDVDで購入したことがある。今も時々見ているが、年を重ねたせいか何度見ても新鮮さを感じる。育った昭和時代をこれほど忠実に記録してくれて有難い。

 山田洋二監督はこの映画によって日本を記録したかったのである。昭和時代に生き抜いた日本人の庶民生活、また戦後の目まぐるしい発展と共に変化する日本人の心さえも映画で残したかった筈で、お蔭で我々はいつでも自分が育ってきた環境を思い起こせることが出来る。昭和人間はもちろん、平成生まれの若者にも直接当時の様子を語る手段として効果がある。最近、日本では戦争中や戦後の復興期を取り上げる番組が多いし、これがまたヒットする。NHKの朝ドラもそうであるが、この頃の内容だと人気が出る。

 残念ではあるが、この芸当は一枚の写真ではとても無理である。情景を伝えるにはスチール写真はとてもムービーに及ばない。大掛かりな撮影機材を持たないでスナップ写真を簡単に残せるのは有難いけど、このような人間味描写ではやはり映画の方が数段上である。写真の場合にはせいぜい人物のポートレートに終わる。

 この作品は、総48作で終わっている。なぜか、日本では48という数字がよく使われる。四国48番札所めぐり、三重県赤目48滝、AKB48、赤穂48浪士、などがあります。
仏教用語では、三と四、その倍の六と八の組み合わせが多くあり、三門、四天王、四苦八苦、六地蔵、釈迦三尊はよく聞きます。

48=6×8ですね。よくわからん。

ちなみに、AKB48は当時運営していた社長の芝さんの名前から、シバ(48)となったと聞きました。

2016年12月31日

10年前の大阪梅田はどこも工事中

umeda-1.jpgのサムネール画像大阪人が北と呼ぶ梅田駅周辺は年末になると一層込み合う場所である。一番の繁華街であり、何といってもJR大阪駅、阪急西梅田駅などの乗換駅があり、有名なデパートなどが数を連ねる。この写真は、10年前2007年12月24日にJR大阪の歩道橋から撮影した写真である。私は、どこに出かけても記録として残している。特に変化が大きい駅前などは効果的である。誰でも苦労無しに撮れるし、最近のデジカメなら自動的に日時も記録される。撮影に日時の無い写真の記録的価値は半減されるので、カメラの日付は常にチェックが必要だ。そんな事を心掛けて残せば、その写真には自然と価値が付いてくる。変化が激しい場所も意外と誰も残していないことが多い。
 さて、JR大阪駅の周辺が10年で大きく変わった。昔の大阪市内は梅田に限らず、少しイメージが悪かったが、ここ数年で別物と化した。JR西日本と伊勢丹の合弁デパートも新しく出来たし、ヨドバシの周辺もどんどん建て変わっている。
 私が撮影した10年前は、こんな工事中の光景がいたるところに見られた。最近では南に行けば、近鉄百貨店の新ビル「あべのハルカス」も建っている。そろそろ南の工事も始まるような気がする。

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2016年12月30日

意外と知られていない「松浦武四郎」

 「三重県一志郡三雲村というところに生まれたひとりの男が、当時世人から暗黒大陸のように思われていた、北海道の周辺はもとより、その内陸の山川のはてまで縦横に歩きまわり、ついにその土地の名付け親ともなった。」

 これは、淡交社から出ている更科源蔵さんが書かれた「日本の旅人シリーズ14:松浦武四郎 蝦夷への照射」の最初にある幼年時代の節である。

松浦武四郎は、ここ三雲村の生まれ

 三雲村と言えば、現在では私の住んでいる津市の南端、津市三雲町のことである。津市三雲町と言えば、この武四郎のことより、隣の鋼管町にある造船会社「日本鋼管株式会社津工場」がよく知られている。夏は近くに海水浴でいつも賑わいをみせる御殿場海岸もある。現在は今年5月に開催された「伊勢志摩サミット」で三重県はよく知られるようになったが、この本が出版された昭和48年では、近くの人でさえ、松浦武四郎のことを知る人は少なかった。私が当時購入した本が、年末の整理でたまたま別の本を探していたときに出てきたので、今日はこの三重県が産んだ旅人「松浦武四郎」ついて紹介しています。

 今年も残すところ数日、来年のトランプ大統領の動きしだいで日本がどのように変化するのか心配ですが、それとは別に頻繁に発生する地震はそれ以上に不気味に思えます。

2016年12月23日

しばらく行っていない東京丸の内

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撮影:TOMIOKA Takumi  2004年12月18日(東京駅丸の内近く)

 2004年12月私は東京丸の内に居ました。この頃の東京駅は丸ノ内側や八重洲側も大工事に突入の最中で徐々に工事用ボードが設置された時でした。八重洲の地下にあった大丸の入り口も閉鎖され、ここが将来どんな風景になるのかを想像する人も多かったはずです。その時に撮影した一枚ですが、後方には東京タワーが見えます。スカイツリーで存在が薄くなりましたが東京と言えばやっぱり芝公園にそびえる東京タワーです。あのオレンジにライトアップされたのを見ると「東京に来てる」という感覚がこみあげてきます。下町にそびえて周辺が夜には暗くなるスカイツリーと比べると迫力が違います。あの安定した形状といい、当時の建設の苦労といいどれをとっても東京タワーです。高さばかりではないのです。以前NHKの人気番組だった「プロジェクトX」でも紹介されて私もすっかり東京タワー派になりました。名古屋のテレビ塔も大阪の通天閣も同じ設計者というのもこの番組で知ったわけです。
 今ではすっかり東京駅周辺は変わってしまい、昔の光景を思い出すのが大変ですが、一度ゆっくりと歩いてみたくなりました。2020年の東京オリンピックに向けた工事が始まり、まだまだ変化する東京ですが皆さんも、色々な場所をカメラにおさめることをお薦めします。何十年後にはきっと価値が出て宝物になるような気がします。ただし、撮影日は必ず入れておきましょう。撮影日の分からない記録写真は価値が半減しますから。

2011年10月 1日

日本で初めて開催された自動車グランプリ

car-race1.jpgいまでこそ日本の自動車産業は世界でもトップクラスですが、私が高校生だった1963年では自動車のスピードレースで世界に太刀打ち出来そうな車種は皆無だったと思います。とはいえ、ラリーにおいては当時もダットサンなど優勝したレースはあったのですが。
日本で最初に開催された本格的な自動車レースは三重県鈴鹿サーキットでのものです。この写真は、1963年(昭和38年)に開催された「第1回日本グランプリ自動車レース大会」のでものです。当時の毎日新聞と共に保存してありました。この頃の国産車は、メインのレースには出ておらず全て外国製でした。レースを見た時の印象でも、国産車はレベル下のレースしか出ておらず、しかもスピードにおいてもメインレース車輌とは比較にならなかったものです。

既にフォーミュラワンというレースはヨーロッパを中心に開催されていましたが、この頃日本のサーキットはまだその水準に達していなかったのです。そんなことから、この日のメインレースに出場した車は全て外国車であり、ドライバーも当然ながら外国人だったわけです。同じ日に開催されたランク下のレースでは、ヒルマンや鈴木のスズライトやスバル360が出場しております。

car-race3.jpgそれでも、日本で初めて開催された本格的なレースは感動の連続であり強く記憶に残っているのです。まさか日本製の自動車が、のちになり世界を制覇するとは観客席の誰もが思って居なかったことでしょう。ただ眼の前を通過する外国製レーシングカーのスピードと爆音に酔って居たのでした。当時のスピードは140kmほどだったと思います。
car-race2.jpgその当時は技術的なことよりも自動車レースという文化がやっと日本でも実現されたという印象を強く持ったものです。開催に努力した本田技研も当時においては自動車は生産しておらず、まだ日本では大衆が簡単に遊び用自動車に乗り回せる時代ではなかったのです。

やがて、今年も鈴鹿市ではF1日本グランプリが開催されます。ホンダのマシンは撤退してしまったために今では見ることが出来ませんが、1964年から1990年代には本田のマシンは大活躍しており世界のF1レースをことごとく制覇した実績があります。わずか30年ほどで世界を追い越した日本の自動車技術には驚きです。このことは世界中の自動車界で長く語りつがれることになるはずです。特に本田技研の場合には、1967年にN360を発売するまでは2輪メーカーだったわけです。
本田やトヨタが撤退した現在、日本で開催されるF1グランプリもいつまで続くか判りません。もともと、自動車メーカーの実験コースという考えで作られたものですが世界の自動車技術の発展と共に、ひとつの文化となってしまったわけです。さて、来週のF1日本グランプリでは、どのマシンが優勝するのでしょうか。

2010年9月27日

SONYのカタログで昔のことが甦る

sonycatalogue01.jpg所有:TOMIOKA Takumi

世界のソニーが日本の会社として出現したのは昭和21(1946)年でした。まだ日本は戦争に負けた悔しさから、国民上げて豊かさを求めるのに必死だったと思います。当然、電化製品は贅沢な時代であり、娯楽といえば精々真空管式の木箱ラジオでNHKで放送されていた浪花節や三つの歌やラジオドラマを聴くことでした。そんな頃に世界で先駆けてトランジスタラジオを開発し売り出したメーカーがソニーだったわけです。設立当時の社名は東京通信工業で昭和33(1958)年からソニーと変更されました。その後にソニーは躍進を遂げて今や世界中の多くで製品が愛用されているわけです。

sonycatalogue02.jpgこのカタログは、昭和34年頃に私がラジオ宣伝を聴いていて直接ソニーから取り寄せたものです。ソニーが始めてトランジスタラジオの販売を開始したのは昭和31年のことです。当時はカタログも貴重でありたった1枚の粗末な紙に両面印刷がしてあり、この写真は表面です。裏にはラジオの仕様が1色で載っています。この時代にはカタログはあまり家電屋さんには置いてなくて、自分で返信用切手を同封してメーカーに請求するのが普通でした。そのために宣伝の最後には必ずカタログの請求先が放送されるわけです。

カタログの大きさは183mm×123mmです。