東ドイツのカメラ「エキサクタ」
やがて第2次世界大戦が起こりドイツは東西に分断され、カメラ業界も同じ社名でありながら別々に製造されていた時代があります。

日常感じたことを中心に、アマチュア無線やデジタル写真・町の記録写真など、私が皆さんに伝えたいことを書き込んでいます。仕事の関係で不定期に更新しております。・・・・・・・・全ての目次はこのページの一番下にある Archives をクリックして下さい。
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2016年12月26日
2016年12月23日
2016年12月20日
2011年9月27日
撮影:TOMIOKA Takumi
(iPhoneを使用)
シュナイダー社製
ジンマー135mm/F5.6
ドイツのカメラメーカーが日本のカメラ会社に大きく影響を与えたのはよく知れた事実です。戦前からもライカなど日本に輸入され、それらを真似た優秀な日本製のカメラも多くキャノン4Sbなどが有名でした。日本も技術が無かったわけではありませんが、なんと言ってもドイツの光学技術にはかなわなかった時代でした。
ライカを製造していたエルンスト・ライツ社の他にも、イコン社・シュナイダー社・フランケアンドハイデッケ社・カールツァイス社数えればきりが無いほどです。その中でも、多くのカメラ会社にレンズを提供していたのが、シュナイダー・クロイツナッハ社です。この写真は、当時だけではなく現在でも人気が高いジンマーレンズです。シュナイダー社の有名なレンズの一つですが特に大判カメラ用の物です。ジンマーを始め、スーパーアンギュロン・クセノター・クセナーなどが有名です。
このジンマーレンズは多くの風景写真家や人物写真家に好まれ、これを使うためにわざわざ「リンホフスーパーテヒニカ」という本体を購入して撮影をするプロ写真家が多いのです。例えば、山岳写真家の白川義員(しらかわよしかず)さんや風景写真や女性写真で有名な篠山紀信(しのやまきしん)さんなどです。あの大きな機材を背負いつつ世界の名山を残した白川さんの作品集は有名です。
では、なぜここまでシュナイダーレンズに拘ったかを考えてみます。
確かに日本のレンズも優秀で解像度などは負けていないものが多かったし、ニッコールレンズなどは世界的にも知れ渡っていたわけです。しかし、それはモノクロ写真の時代の話であり昭和40年代に始まったカラー写真では、断然とシュナイダーレンズが上でした。
プロ写真家は写真を撮影して商品にして雑誌社や印刷屋に売り込むわけで決して自己満足で仕事をするのではないからです。当時の印刷業界では、今ほど技術が発達していなかったのでカラー印刷には、特に原版が影響したわけです。レンズはジンマーでありフィルムはコダック社のエクタクローム、これが彼らの常識だったわけです。他のレンズを使用すると原版に濁りや色バランスが崩れて印刷の仕上がりにも影響が出たくらいです。そんなことからプロ写真家の定番セットになり、多くの写真家の間でシュナイダー社のレンズやカールツァイス社のレンズに人気が集中しました。
そんな時代も終り、今ではデジタル処理が可能です。たとえフィルムで撮影した写真もコンピュータ処理によりどうにでも最高を作り上げることが出来るわけです。
最近プロ写真家の間ではキャノンのデジタルカメラが特に人気があります。キャノンにはニコンと違い多くの電子技術屋が居ます。事務機器で培った電子技術と昔からのキャノンレンズの組み合わせが古い技術に固執したニコンの技術を追い抜きました。この写真のレンズは、トプコンのホースマンで使用しているもので座板にはコパル#0というレンズシャッターが装着され、そこにジンマーレンズを取り付けて使用しています。たまたま、整理していたら出てきたので昔を思い出しながら書いてみました。
2011年9月26日
旭光学工業は1919年に誕生したカメラ界の老舗です。2002年にペンタックスという社名に変わるまで、ずーっとアサヒペンタックスという名前で親しまれてきました。その会社も業績不振に陥りホヤに買収され、今度は今年7月にカメラ事業部をリコーに買収されました。リコーも大きな事務機メーカーですが、昔はリコーが出したカメラなどマニアの間では誰も振り向かなかったものでした。そのリコーも時代がデジカメに変化し最近では多くのヒット商品が生まれ、ペンタックスに追いついてしまったというわけです。
この写真は、PENTAX SV という機種の上部に専用露出計を装着したものです。この頃のカメラは、光を測定する機構は無く別に露出計を使用するか、または人間の経験により絞り値とシャッタースピードをセットする必要があったのです。要するに露出計が指し示す測定値を絞りリングとシャッターリングに手回しでセットするわけです。当然、速写では間に合わず微妙な露出の変化にはとても追従することが出来なかったわけです。
ペンタックスという社名は初めから使用されたわけでは無く、この会社が世界で始めて一眼レフカメラを発売した時には、旭光学工業の名前から「アサヒフレックス」ということで売り出しました。それまでのカメラは2つのレンズを持った2眼レフだったわけです。ここで、使用された一枚の鏡(レフレックス)がヒントとなり、それまでに無かった画期的なカメラが生まれたわけです。
最初の一眼レフでは、撮影者は上部に位置するファインダーに真上から眼を近づけて逆に写った像を見ながらシャッターを切りました。当時は、像が逆に写るのは当たり前だったので不便と知りながら仕方の無いことだと諦めていたわけです。そんな中、旭光学は像の正立化に成功しました。そこで使用されたのが5角形をしたプリズムです。今では当たり前ですが、ファインダーに眼を近づけるとちゃんとした正立像が見えたのでした。そんな訳で使用していたプリズムからペンタックスという名称が生まれたわけです。古典ギリシャ語で5はペンタと言います。その後には社名まで変更となりました。
長かったペンタックスの名称もしばらくは使用されると思いますが、やがては聞かれなくなるでしょう。
産業界ではちょっとしたヒット商品により、会社の業績に差が出るので怖いことです。旭光学の築いてきたカメラ技術は最先端のものでした。技術よりも宣伝力で左右される困った時代に突入です。
これまでに消えたカメラメーカーは沢山あります。ミノルタカメラ事業部がソニーに買収されたのも大きなニューズとなりました。ブロニカ工業も消えてしまいました。今度消えるメーカーが何処になるかが心配ですね。
撮影および所有:TOMIOKA Takumi
2011年9月21日
東京に戦前からあった高千穂製作所は当時は顕微鏡などを製作する光学機器メーカーであったが、ズイコーレンズと名付けられた高解像度レンズをマミヤシックスなどに提供するようになり、カメラ界でも知れ渡っていった。のちにギリシャ神話からヒントを得たオリンパスが社名に採用されて今に至っている。
太平洋戦争後の日本はカメラ戦国時代と言われ多くの国産品としてヨーロッパのカメラを模索した多機種が発売されていた。それらは戦争により技術を磨き上げた会社も多かった。
オリンパス工業がその社名を一気に高めたのは、何と言ってもPENである。香川県の田舎から東京の早稲田大学機械工学科に進んだ米谷美久(まいたによしひさ)さんは熱心なカメラマニアであった。当時は高価で手が出なかったはずのライカを若い時に使うほどのカメラ好きであり金銭的にも余裕があった。カメラ会社であるオリンパス工業に進み、すぐに上司から課題を与えられた。誰もが手軽に使用できて安いカメラという課題条件は厳しかったが何とか克服して生まれたのが1959年発売のオリンパスPENである。
このカメラには、当時のカメラには無かった画期的な機能が備わっていたのである。
ひとつはフィルムを半分にして撮影するハーフサイズという発想である。当時の35mmカメラのサイズは幅35mmフィルムに合わせて撮影枠は横36mm縦24mmであった。その半分のサイズにしてやればフィルムを半額で使える(当時はフィルムと現像代も馬鹿にならない時代)。誰もが考えつかなかったアイディアである。しかし、このサイズを採用するには、レンズの性能が重要であったが幸いとオリンパスカメラはシャープな切れ味で定評あるズイコーレンズを使っており、彼はさらにこれを解像度の上がるテッサータイプで構成した。こうすれば何とかハーフサイズでもフルサイズに対抗できる。
さらに、フィルム巻上げ機構であった。当時の35mmカメラは大きなレバーで巻き上げる方式を採用していたので機構的にも歯車が多く必要で、ボディへの収まりも悪かった。米谷さんは親指の腹で巻き上げる方式でほとんど目立たないものを考案した。しかも安価である。
このことが見事に的中して翌年にはオリンパスPENーSを発売した。この写真は当時発売されたものであり、今でも問題なくシャッターが軽く切れる。レンズシャッターなのでシャッター音もほとんど無くスナップには快適である。
のちになり、米谷さんはオリンパスカメラを絶対的なものとした、一眼レフカメラOM-1を開発している。このカメラにも米谷さんの拘り機構が随所に採用されて興味深い。もちろん当時発売されていた一眼レフカメラに比較すると2割ほど小さく感じられたし軽かったものである。手持ちの箱から探し出し手入れが済んで時間があれば、いずれここで紹介したい。
撮影:TOMIOKA Takumi
2011年4月16日
旭光学工業が急に有名になったカメラがアサヒペンタックスという世界で最初に発売された一眼レフです。もともと、フレックスカメラは西ドイツのローライフレックスが有名であり、レンズも当時の最高峰レンズであるプラナーF2.8が付いたものでした。ところがこのフレックスカメラは上にファインダー用レンズ、下に露光用レンズと1台のカメラなのに2個のレンズを必要とし効率が悪かったわけです。
そこで、この欠点を補うための開発がなされ、それを見事に解決っしたアサヒフレックス?型が開発されました。このカメラはフレックスカメラ特有の像が反転してしまい、速写には不自由であったわけです。やがて、旭光学はこの欠点を5角形プリズムを使用し正立像に変える機構を開発したのでした。これで旭光学は後にカメラグランプリを獲得し世にペンタックスの名称を定着させたのです。5のことをラテン語でペンタと言いますからこれからPENTAXということになったわけです。一眼レフのペンタックスはその後に写真のようなSVが発売されました。このSVまではレンズネジ板に特徴があり、独特のデザインで強い印象を与えていました。その後、SPなどが 爆発的に売れアサヒペンタックスの名はカメラファンで無くても「ペンタックス」を口づさむほどに有名になりました。当時採用していたテレビコマーシャルも多いに影響があったのも確かでした。
2010年11月 3日
Rollei 35 は1967年に発売された小型カメラである。1966年にドイツフォトキナで発表されて人気が出ました。ボディ前面にはシャッタースピードと絞りの2つのダイヤルがあり、連動露出計はCdS式を採用しておりますが当時の小型カメラには同様の物が多かったのです。初期型はドイツ製、その後シンガポール製となったが、この写真のものはシンガポール製です。シンガポールでは当時からローライの多くの機種が製造されていました。レンズにはテッサー40mm3.5が装着されたが一部にクセナー40mmF3.5付きが存在っします。テッサーは、もの凄く解像度が高いことで知られているが、このカメラ購入に行った名古屋市栄にあるヒダカヤ本店で、このカメラで撮影したモノクロ写真を見せられてびっくりしたものである。近くの中日ビルを遠くから撮影した写真だったが実に鮮明に写っていたのを覚えている。
撮影:TOMIOKA Takumi
携帯電話iPhone使用
レンズシャッターなので開閉時の音も本当に小さく手ブレも皆無である。当時の価格は¥69000と高価であったために、他の人気があった小型コンパクトカメラに比較してあまり売れなかったのです。
もともとローライは西ドイツのフランケ アンド ハイデッケ社が作る2眼レフとして有名であったが、このカメラになって35mmカメラでも知られるようになった。
2010年9月17日
もともとCANONはカメラメーカーとして出発をした。まだ日本にカメラ会社が少なかった頃の話である。今でも本社を東京三田においているけど、これには理由があります。
精機光学研究所というのが初代創始者「吉田五郎」氏が率いた当時の会社である。この会社には、親戚の内田三郎氏と内田氏の元部下であった前田武男氏が居た。彼らがこの研究所を設立したのは戦前の1933年11月のことであった。当時発売されていたカメラ雑誌「アサヒカメラ」には、その時の宣伝が載っているが非常にユニークな名文句である。「潜水艦ハ伊號、飛行機ハ九二式、カメラハKWANON、皆世界一」。
KWANONはカンノンと読む。創始者の吉田五郎氏は観音教の信者であったことからこの名前が付けられたのである。また、だから当初製作されたカメラにはこのKWANONが使用されたが、発売はされていない。ライカに対抗して作り上げたカメラではあったが残念ながら試作品に留まった。理由としては色々あったが、当時では部品を揃えるのも大変であったからであろう。また同じ経営者としてやっていた内田三郎氏の兄が日本光学工業(現在のニコン)の関係者であったために、日本光学工業からレンズ、距離計などの光学部品の供給を受けたのである。日本光学工業は既に有名であり、戦艦大和の距離計ファインダーなどを製造していた。こうした背景からようやく36年2月にはハンザキヤノンが発売された。なんとこのカメラのレンズは、ニッコール50mmF3.5標準レンズ付きであった。ニッコールレンズとういうのはニコンのレンズに使用される名称です。
2010年9月16日
撮影:TOMIOKA Takumi
ニコンS3(2000年モデル)
ニコンは私の写真歴の中でも深く印象に残るカメラとなりました。若い頃、当時カメラファンに人気があった一眼レフタイプのニコンFに憧れたことがあります。その頃のカメラといえば精密機械扱いであり、腕時計と共に生活用品の中でも贅沢品の部類のひとつでした。時計やカメラはそう簡単に手に入る品物ではなかったものです。
ニコンFが新発売される少し前に、35ミリ距離計式カメラであるニコンS3やSPが発売されていましたが、これはとても高価で実物などは見れることがなかったのです。 当時に日本光学株式会社大井製作所でニコンS3を作っていたカメラ職人たちは既に高年齢になったことや、世の中で販売されるカメラが新型の一眼レフに変ってしまい、誰も高いS3など使おうという人はなかったのが現状でした。ところが、ニコンが西暦2000年を記念してそのS3を復刻したわけです。当時のカメラ事情を知っている人には驚きであり、再び購入チャンスがやって来たことを喜んだわけです。実際に手にした2000年モデルはもの凄く新鮮であり、むしろ当時の技術にはなかったほどの精度良さとレンズコーティングの良さが目立っています。10年も未開封でおいてあったので、まだフィルムを通していませんが、早めに撮影してここのブログで報告したいと思います。
自動露出機構も無くカメラの原点とでもいえそうなカメラですが、デザインには無駄が無く保存版に値するカメラです。最近は殆どデジカメにより撮影しておりますが、時にはゆっくり時間をかけてこのカメラとセコニックの露出計を使用しながら撮影してみるのも頭の体操に良さそうな気がします。
2010年9月 8日
ライカA型が発売されたのは1925年です。
当然、カメラ界には35ミリなどのフィルムは無かったのです。ではなぜ35ミリサイズが生まれたのでしょうか。35ミリは当時使われていた映画フィルムなのです。当時において映画界は盛んであり映画用のフィルムは比較的入手しやすかった。そこで、簡単に手に入るフィルムを使ったカメラが考案されたというわけです。フィルム送り用の穴が端にあり現在もその機構は変わっていません。ライカ判といえば35ミリ判カメラの代名詞であるのはその名残です。要するに証明用写真のサイズです。
このライカA型にはエルマーという50ミリの標準レンズ付で発売されたこともあり、この種のカメラの標準レンズ50mmはこの時に定着したようです。人間の遠近感に近いのはもう少し長い60ミリ程度らしい。もう一つの特徴は沈胴レンズということです。この写真のように常にレンズが前に飛び出ているのではなく撮影時に手で引っ張り出す設計だったわけです。撮影時にこれを忘れると全部ピンボケになりせっかくの自信作が後で思わず失望に変わることがよくありました。
最近ではライカも時代に押されて、デジカメが発売になりました。電子回路にはそんなに強くないメーカーとは思いますので、やっぱりライカファンはレンズに魅力を感じて使用しているのではないでしょうか。ズミクロンやエルマリートなどは本当に味がある良いレンズです。
2010年4月28日
ソニーからα100が発売されて高級デジカメの動向も少しは変わってきたと思っていたら、今度は700を発売した。最近では、この普及型である2機種が同時に発売されソニーも本腰を入れてきた。以前では家電メーカーのイメージが強いソニーではあったがミノルタカメラの技術部を買収してからは、すっかりカメラ屋さんに変わりつつある。それもそのはず、デジカメはソニーが世界に誇る最先端の「画像処理技術」を屈指できる最短の商品でもあるわけだ。何でも手がけるソニーであるが、こと画像処理に関しては他のメーカーを寄せ付けない。特に放送業界では昔からソニーの映像機器が独占していることはよく知られている。
早速このアルファ700を使用してみたので気づいた点を報告します。
全体としてバランスのとれたカメラであり、今までの高級デジカメとは違い、撮影者の使用感を重視した設計である。たとえばボディーですが、ニコンなどの高級機種では非常に重く、若い放送カメラマンなどのプロたちが使用する何かゴツゴツとしたイメージがあった。
このアルファ700にはそれが無く、どちらかと言えば頼りなさそうなデザインである。軽合金で出来た少しひんやりとするボディがよく手に馴染み、両手の中で少し大きな石ころを転がすような感覚である。このことにより撮影に専念することが出来てありがたいのと、何と言ってもゴツゴツとした違和感がほとんど無い。しかも、重さだけはずっしり来るが首にかけていても気にならない程度だ。
この写真はアルファ700トップビューである。黒いストラップは付属のものを勝手に私が取り替えて使用しているもので、ストラップが細いと撮影時にカメラをしっかりと把持できて縦位置や横位置を気にせずに自由に変えれる。どこかのメーカーで細い丈夫な組みひものようなストラップを付属でつけてくれないかと一人で思っているがそんなメーカーは無く、むしろ段々と幅広くカラフルになって来ているようである。
このボディは上から見るとスッキリしていて無駄の無いことが分かる。実際に750枚ほど撮影してみたが大きな突起物がないので転がすように自由にアングルを探せるのが気に入っている。
左のダイヤルはモード切り替えであるが、予め想定される色々なモードが準備してあり、ダイヤルを回転させるだけで、ほとんど最適の設定をカメラが選択してくれる。以前のように撮影者が操作に慣れていなくてもほぼ間違いの無い条件をカメラが選んでくれます。<br />たとえば動きのある被写体であれば、スポーツモードにしておけば、毎秒5コマのモータドライブ設定に自動的に切り替わる。しかも露出もシャッターと絞りを被写体に最適な条件が選ばれてセットされる。むかしフィルム式カメラでキヤノンT90を使ったいたことがあるが、あのときの感覚がこのデジカメで甦ったような気持ちしてくれる
私は広角レンズが好きなので広角での撮影がかなり多い。デジカメに広角レンズを付けると焦点距離と写角が合致しない。たとえば写真のようにアルファ700に20mmレンズを付けてみる。そうすると写角は33mmレンズを着けた時に相当する。本来は80度ほど無ければいけないのだが、ファインダーを覗くとがっかりする。かなり狭く感じる。この理由は、現在市販されている多くの高級デジカメの撮像部であるCCD素子は、レンズ規格を定義したものを満たして居らないためである。フィルム式カメラなら35mmカメラは横36mm縦24mmであるから、このサイズのCCDが部品として供給されれば、この問題は解決するはずである。一部の高級デジカメにはフルサイズCCDを採用したものが出てきているから、ソニーのアルファでも時間の問題と思われる。(どうやら来年発売されるらしい)
このカメラを始めて握った時の印象です。一度グリップを握ったら直ぐに分かると思うが、手にカメラが吸い付いたように感じる。持った瞬間、さーと手に収まったのには驚いた。以前だと色々握り回してピッタリ収まる掴み方を探したものである。
今度は撮影された画像について報告です。
ご存知のようにソニーの画像処理技術は世界でも定評があり、多くのビデオ撮影機で採用されている。今回のアルファ700にも最先端の画像処理エンジン(コンピュータ素子)が搭載されており、処理速度が驚くほど早い。しかも、秒速5個まで処理してくれる。各モードでの撮影方法を選択すると撮影者の技量に関係なく最高の画像を記録してくれるのは有難いし、その分、被写体に注意を向けて創作に専念できることである。
700枚ほど撮影して一つだけ気になることがある。オートフォーカス機能での測距離がワイドレンジを選択してしまい、少しでも近くに何かがあると狙った被写体が大きくピンボケとなることが多かった。もちろん中央重点でのフォーカスに固定してやれば解決するのであろうが、まだ完全にマスターしていないので、常に気になることが多い。
またもう少し撮影して、気が付いたことがあればここで報告をすることとします。
2010年4月 1日
カメラメーカー各社がデジカメに移行し、以前から使われてきたアナログ式(?)カメラにも陰りが出てきた。なるほど精密機械なので経年変化で不具合が生じることが多い。何十年も前のカメラとは違い、アナログといってもコンピュータが内蔵されていて露出などはピカイチで撮影が可能である。ニコンといえばS型距離形式に始まり、最近ではF6が機械式の最終版として発売(2006年)された。しかし、これを最後にニコンは今までの機械式カメラの生産を止めてしまった。(一部は受注生産するらしい)
そんな中、私が愛用しているニコンF100もどうやら価値が出てきそうだ。このF100は価格からみれば、ニコンの最高機種ではないのであるが、アマチュアカメラマン難なく使いこなせる使い勝手のいいカメラです。重量も程よくてズッシリ感もあり、シャッターを押したときの振動もほぼ吸収してくれるのでカメラブレも非常に少ない。なかでもシャッター音に無駄が無く、狙った場面を確実にリアルタイムに記録でき、デジカメでは味わえない快適さがある。この写真では、超広角レンズ20mmを装着してあるが、重量バランスが良くて私の好きな一本である。手の中で転がすように操作できる機種は、このF100以外にはあまり無いと思う。他の機種は重さや大きさで私の手には馴染まない。写真を撮っているときには、カメラは自分の体の一部であることが肝心であり、カメラに気を取られるとせっかくの創作意欲とシャッターチャンスを逃がしてしまいそうである。もう二度と製造しないだろうから、大事に使用するつもりであるが、いつまでメーカーがフォローしてくれるかが心配である。ニコンは他のメーカーに比べ、昔のカメラでのアフターも行き届いているが、このような電子デバイス内臓の機種は故障には太刀打ち出来ないところがあり仕方ない。
2009年5月 3日
このカメラにした大きな理由は、視野が100パーセントでしかも20mmの写角(しゃかく)がそのままで写る。このことは昔からのレンズを使い慣れている人にとっては重要なはずである。
それともう一つ、解像度である。世界で始めての2460万画素とは、フィルムカメラには及ばないが、実用上何らフィルムカメラと変わらない。しかも、こちらはフィルムを使わないので化学反応などの色処理も無く、肉眼で感じたそのものを定着し、途中でゴミやホコリが混ざることも無い。
よく見るとアルファ700より一回り大きいが、すぐには気が付かないほどの形状である。ただアルファ900の方が、持ったときにずっしりとして重く感じる。それでも、他社の物に比較するとかなり軽く感じる。
左の写真を見て判ると思うが、上部三角プリズム部分には内臓ストロボが無く、フラッシュは専用の物を付属品として用意している。早く言えば、以前からのカメラのように基本のものだけしか本体には付いてなく、フィルムがCCDに変更されただけというイメージが強い。逆に、こんなカメラを探していた人も多い筈である。
ボディを手に取った時に、すぐに感じることが出来るのは700と同様、手の中で石ころを転がす感覚だ。それほど余分な突起が無くて扱いやすい。操作性も700とほぼ同じで、液晶部分が少し大きくなった程度である。
撮影時のセットも一発でOKであり、目的のマークにダイヤルを回せば最適のモードになり動作する。高級カメラを使い慣れている人には少し物足りないと思うが、これに慣れると、便利さが普通になるのには驚いた。例えば、スポーツもモードに合わせると、シャッター優先の最高速度モータドライブも自動的にセットされる。毎秒、5コマはかなり速写を感じる。
まだツアイスのレンズを装着して撮影していないが、カタログによると可なりのものの様である。今後の楽しみの一つにしたい。
2007年4月27日
吉野善三郎さんが設立された「ブロニカ工業株式会社」はすでに無い。現在はタムロンが引き継いでいるようで,当時設立されたブロニカクラブもタムロンのサイトから入ることが出来る。そのころの中判カメラというと、2眼レフが主流であり、中でもローライ(西ドイツ製)は高価であった。そんな中、中判一眼レフとして鋼の国スエーデンから八ッセルブラッドが発売され、レンズもローライと同じカールツァイス社のプラナー付きであった。このカメラは映画のシーンにも出てきたりして、アマチュアカメラマンの中には憧れる人も多かった。その頃に開発されたのが純日本製のゼンザブロニカである。
ハッセルブラッドはレンズシャッター式であるが、こちらはボディに内蔵されたフォーカルプレーン式シャッターを採用していた。どちらが良いかということで比較した雑誌記事もあったが何とも言えないような回答が多かったと思う。このカメラに人気が出た理由として、ニッコールレンズが採用されていたことである。ニコンのレンズは35mmカメラで絶対的な信頼がありファンも多かった。しかし35mm判で風景写真を撮るとなると少し不安があり、ほとんどの風景写真家には苦労の種であった。この写真は,初期の発売後に発売された100ミリレンズが付いたS2型である。ニッコールの75ミリ標準レンズに変わりトプコンが製作したゼンザノンの100ミリ付きとなった。当時のトプコンが製作したゼンザノンは今でもファンが多く当時としては憧れの一本でもあった。
2006年12月19日
昭和8年(1933)に始めて、ミノルタブランドが登場したが、以来ミノルタカメラは転々と社名を変更して、現在はコニカミノルタとなった。思えば、アメリカのフレンドシップ7号で日本のカメラが宇宙に飛ぶということで一躍有名になったミノルタハイマチック。その他、露出計のミノルタと騒がれて今まで産業界に残る名品の数々を世に送り出してきた会社である。写真の2眼レフは非常に良く売れたカメラで、ドイツのローライにも負けない描写力で人気があったものである。1955年に当時の千代田光学(現在のコニカミノルタ)から発売された。フィルムはブローニーで画像のサイズは5.5cm×5.5cmであった。レンズも非常に定評のあるロッコールレンズ75mmF2.8が付いていたし、フィルムの保持にも独自の工夫がなされている。私も、時には小さなシャッター音を聞きながら風を通しているが、デジカメに慣れてしまった現在ではとても使う気になれないのが本音である。