パソコンOSの話

日常感じたことを中心に、アマチュア無線やデジタル写真・町の記録写真など、私が皆さんに伝えたいことを書き込んでいます。仕事の関係で不定期に更新しております。・・・・・・・・全ての目次はこのページの一番下にある Archives をクリックして下さい。
2019年6月30日
2017年6月 6日
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2016年12月25日
2010年11月28日
所有:TOMIOKA Takumi
1990年5月号(アップルファン雑誌)
米国のコンピュータ雑誌にはbyteという有名なものがあります。バイトはコンピュータの世界では常に使用されている容量を表す単位なので誰もが耳にしていることでしょう。ところが、この雑誌の書名であるnibbleはあまり知られていません。実はこれも同様に単位なのです。
コンピュータで2進数を表示する意味を表すのにビットという単位を使用します。ビットとはbinary digit の省略したものでbitという単位が生まれたのです。すなわち、一桁の2進数(0か1)を使って数値を表現するという考え方です。当然、一桁では足りなくなるので次々と桁が上がります。どんどん上がって4桁まで行ったとします。この4桁で一つの命令機能を持たせたコンピュータが世界で最初に開発された4ビットマイクロコンピュータでした。当時使われていた大きなコンピュータとは異なり、小さな集積回路で構成された物で米国のインテル社が最初に開発と発売をしました。4ビットコンピュータでは命令も全て4ビットデータ(2進数4桁)を使用していたのです。このデータの長さをnibbleと呼んで、「これは24ニブルのプログラムです。」と話をしたものです。ところが、この4ビットマイクロコンピュータの時代は直ぐに終わり、まもなく各社から8ビットマイクロコンピュータが開発されたわけです。8ビットコンピュータでは1つの命令データはバイトと呼ばれ、例えば8ビット命令を扱うマイクロコンピュータのことを当時はバイトマシンとも雑誌に紹介され一般的な呼び方だったわけです。
この頃には、インテル社の8008だけでなく米国モトローラ社の6800や米国モステクノロジー6502などが開発され、どれもが一番を競い合ったわけです。インテル社8008は後にペンティアムという名称となり、6800はIBMと共同開発で後にパワーPCと変化してきたわけです。
もちろんこの時代の変化にも大いにアマチュア無線家が関係します。
インテル社で4004という世界最初のマイクロコンピュータを開発したのは日本の嶋正利さんです。この方は2エリア静岡県の出身であり日本のアマチュア無線家です。このブログでも紹介しているので参考にして下さい。
http://mhv.jp/2006/05/post-32.html
また、6502を使用した世界で最初のパーソナルコンピュータ(この名称は米国アップル社が販売用に使用したのが最初)は米国アップル社のウォズ二アックさんが開発して一気に一般人にもコンピュータ利用が拡大されたわけです。彼は生粋のアマチュア無線家であり、彼が出版した「アップルを創った怪物」には少年時代にアマチュア無線に熱中していたことがかなりのページを割いて紹介してあります。
その後に彼は、皆さんご存知の最新型携帯電話である「アイフォン」を開発しています。
また機会があれば、この書籍の中身を抜粋してここで紹介してみたいと思います。
2010年9月25日
コンピュータを動作させるには数字の0と1からなる2進数が並んだ命令を一個づつ電気信号(パルス信号)に変換させる必要があります。でも、コンピュータには瞬時にして解読可能な2進数の羅列データも人間が書くとなるととても大変です。しかも当初は4ビット(2進数が4個の組み合わせデータ)で動く簡単なコンピュータでしたから問題はなかったのですが、だんだんとビット数の大きなコンピュータとなり人間の力では不可能になって来たわけです。そこで、もう少し人間が理解し易い命令で動かないものかと、その変換器の要望が強くなったわけです。
その変換こそ、私たちが言う言語なのです。言語には目的に応じて様々な名称のものが開発されました。なかでも初心者用として当時に人気があったBASIC言語は大型コンピュータやミニコンでは当たり前で、何とかマイクロコンピュータレベルにも使用出来ないかというわけです。
言語を使用してコンピュータが理解できる方式には2つあって、一つはコンパイラ方式もう一つはインタプリタ方式です。このインタープリタ方式で2進数に変換する変換ソフトは実にアマチュア的な考え方で独特のものだったわけです。
子供の頃からアマチュア無線などを楽しみながらコンピュータにも明るい米国の実業家がいます。大富豪のビルゲーツさんです。高校時代に友人と2人でマイクロソフト社を立ち上げた起業家であり経営能力と技術者能力の両方を備えた数少ない人だと思います。時代は違いますが、ちょうどHP社を設立したヒューレットさんとパッカードさんのコンビと似ています。そのビルゲーツさんは、このインタプリタ方式で動作させる翻訳ソフトを開発して紙テープで販売をしたのでした。当時はアマチュアには紙テープが常識であり米国のASR33がアマチュア無線の間でもかなり使用されていました。とは言っても、そうたいしたことでは無く高級言語としてのBASICのにある代表的な命令のみで構成したTINY BASICというものでした。容量は4Kバイト(1バイトは半角1文字に相当するデータ)でした。これは当時人気があったアルティア8800(写真のもの)には願っても無い楽チンテープであり皆んなが待ち焦がれた商品であったわけです。 その
アルティア8800は米国のMITS社が販売していたもので、この機種は米国の多くのアマチュア無線愛好家には定番のものでした。モールス信号をテレタイプで送信するには欠かせないもので、その記事は当時のコンピュータ雑誌BYTEに紹介されております。そんなこともあり、彼はMITS社への売り込みに成功したわけです。ご存知の方もあると思いますが、当時のコンピュータは最初メモリ(記憶部分)にデータを入れないと全く反応が無いわけで、テープにあけられた8個が1組の穴データを読み取り装置で読み取ったのちに、コンピュータがそのプログラムにスタート信号を送って初めて動き出すわけです。どうやら彼は売込み契約を成立させてから開発に専念したという噂もあるようです。この写真のコンピュータは先日久し振りに火を入れましたが問題なくファンも大きな音を立てて動作しました。
このコンピュータは1974年に発売されてキットによるものでした。実に35年前の製品です。テレタイプ社のASR33も保有していましたが、さすが場所を取るので廃棄しました。説明書だけは原本を残しています。さらに詳しくこのコンピュータについて知りたければ下記のサイトに掲載されていますので参考にして下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Altair_8800
今年の3月に仕事の関係でビルゲーツさんと親しい方にお会いして、日本のパソコン創世期の話を約3時間に渡りお聞きしましたので機会を見つけてここで書きたいと思っております。
2007年6月10日
今や世界の誰しもが知っている米国のプリンタメーカーであるHP社の話です。
HP社の以前の社名は「ヒューレットアンドパッカード」といいます。
すなわち、二人のアメリカ人技術者であるヒューレットさんとパッカードさんの二人が立ち上げた会社で、場所は今のシリコンバレーにありました。現在はシリコンバレーですが最初は名前が無く、カリフォルニア州サンタクララ郡パロアルトという地名で呼んでいました。サンフランシスコ湾の奥まった場所で湾近くまで山がせまり、まるで谷(バレー)のようになった地形です。ここは1950年代中頃まではブドウ畑に覆われた農業地区でした。
その頃の若き優秀な学生たちは地元のスタンフォード大学を卒業すると、一度は田舎から離れて東部の有名な会社に憧れ就職をしました。それほど当時の若者には東海岸は人気でした。そんなわけで成績の良い学生はほとんどが一度は東での就職を経験したのです。他の学生と同様にして一度は東海岸に憧れ出た二人ですが恩師からの依頼もあり故郷パロアルトに戻ってきました。そこで大学からのサポートを受けながら多くの試作品を製作してたわけです。このころに製作したステレオアンプ用の低周波発信器がウォルトディズニーの目に留まり、すぐに映画会社から8台の注文が突然舞い込んだというわけです。当時すでにカリフォルニア全域は映画産業が盛んであり、この低周波発信器もディズニーが制作した映画「ファンタジア」に使用されました。このようにして1939年1月1日この地にガレージ風の建物を使った小さな会社を立ち上げたのでした。その後もヒューレットアンドパッカード社は衝撃的な発展を続け、計測器トップメーカーとして今日あるように世界的な企業になったわけです。私も何台かの計測器を使っていますが、どれも非常に高価であるけど、設計がしっかりしていて使いやすいのが特徴です。データ通信の初期に採用定番となった「HPーIB(GP-IB)」という規格は今でもデータ通信の基礎理論として技術屋の間では有名です。
やがて第二次世界大戦が終了し、このバレーにも工業化が押し寄せました。戦争中に戦闘機などを製造していた航空機技術を生かそうと徐々にこの地区に集まりだしたのでした。はっきりしたことは分かりませんが当時米国政府の方針でアメリカはここを工業団地として使用するように決めたのでしょう。山を切り開き電子関係の会社の誘致に乗り出したのです。そこへやって来たのが戦闘機で有名なロッキード社でした。ロッキード社は米国トップクラスの航空機メーカーだったので工場周辺にはみるみるうちに関連のエレクトロニクス会社が30社ほど集まってきたのです。航空機にはそれほど電子機器が付き物なのです。また、当時エレクトロニクスと言えば米国東部地区と決まっていたわけですから、この航空機産業のおかげで一気に西海岸にも火がついたわけです。
そこへ追い風となる衝撃的なことが起こります。学生時代をカリフォルニア工科大学で過ごした一人の物理学者「ウィリアム・ショックレー」が1955年にこのカリフォルニアのバレーに帰って来たのでした。その翌年にショックレーはトランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞したのです。このようにして、若き技術者を初めとする多くのエレクトロニクスに関係した人達で町が出来上がり、その頃から皆はなぜかこの地区を「シリコンバレー」と名付けたわけです。もちろんシリコンは半導体に使用する原料のことです。
この話は、長くなるので今後の流れを先に列挙します。
1)シリコンバレーに半導体製造会社が集まってきた
2)なぜ小さな町工場が世界一のインテル社となり得たか
3)初めて開発されたHP社のインクジェット技術は半導体技術の派生で生まれた
4)アップル社がシリコンバレーで生れたのには理由がある
5)最初のテレビゲームはアタリ社の「ポン」でした
6)パーソナルコンピュータの歴史はアップル社から始まった
と続く予定です。