2010年9月 4日

東京都心は工事中が多い

丸の内工事.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
工事中の東京駅丸の内側

東京都心の工事は2000年頃から盛んになり、今なお工事中の個所が多い。この写真は赤レンガ作りで有名なJR東京駅丸の内側ですが、すっかり工事用フェンスに囲まれていてがっかりさせられます。生まれ変わると駅舎は今まで通りステーションホテルとして使用されるようです。2012年完成予定。

東京駅八重洲口.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)JR東京駅八重洲口

八重洲口も同様、工事中でありかつての大丸デパートは今では姿を消しており、新幹線ホームが丸見えです。新大丸はほぼ右手横に立て替えられて既に昨年から営業を開始しています。以前の光景では必ず中心に八重洲大丸の建物が写り込まれましたが。

スカイツリー.jpg撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
建設中の東京スカイツリー428m時点 

一度スカイツリーを見ようと思い地下鉄の押上駅で下車しました。浅草の近くです。階段を上り地上に出て辺りを見ましたが特に高いものが無かったので、少し探しましたがよく分りません。さらに進んで首を回すと何と工事中のスカイツリーが眼に留まり、これかっと言うことで撮ったのがこの写真です。ニュースや雑誌などでは綺麗な光景が多いのですが、あえて見たままのものです。このように電線が多くあり、すぐ前には関連施設が工事中であり、スカイツリーが428mもあるとはとても感じることが出来ません。

やがて完成すれば、今とは違った見ごたえのある地デジ専用のタワーになることでしょう。

歩行者天国

銀座歩行者天国.jpg 撮影:TOMIOKA Takumi(2010-08-29)
銀座4丁目交差点

そもそも歩行者天国という響きの良い用語は、どうやら1966年に朝日新聞が使 用したのが始まりのようである。1970年当時に自動車の排気ガスが騒がれ、せめ て土日くらいは繁華街において乗り入れを規制して綺麗な町作りをしようとしたの が始まりのようで日本ではここ銀座のものが基準となったらしい。この運動は一時 全国的に広がりをみせ各地に○○天国なる新語を生み出した。
ちょうど東京に仕事に出かけたので久し振りに銀座に立ち寄ったところ、以前とは
違い閑散としていた。それもそのはず今年の夏は猛暑が続き、この日も気象庁は 35度を超える予報を出していたのである。それも観測史上初めてという記録続出 であり、普段は人気がある銀座の歩行者天国もこんな様子である。この場所は銀座 では一番知られている服部時計店のある交差点で「銀座4丁目」と呼ばれ流行歌 にも出てくる。服部時計店も改修工事が終わり工事幕が取り除かれ以前の光景を 取り戻した。

2010年6月29日

滋賀県知事も力を入れた県立琵琶湖博物館

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館内ロビー 撮影:TOMIOKA Takumi (2010-06-27)

現職の滋賀県知事である嘉田由紀子(かだ ゆきこ)さんが元琵琶湖博物館の研究顧問であったせいか、琵琶湖博物館は一味違う。テーマを琵琶湖に絞っていて非常に判りやすい。館内もテーマごとにAからCブロックまであり順を追って丁寧に見ると半日は軽く費やしそうである。中には、弁当持込者のためのエリアもあり一日中ゆっくりと楽しめるのがよい。

場所は琵琶湖に面しているので天気さえ良ければ、野外でも散歩などでゆっくり時間を費やすことが出来るし、樹木には必ず名称を示したプラカードがかかっているので帰宅してからさらに詳しく植物図鑑で調べることも可能である。隅々まで行き届いたもてなしが伝わってくる。さすがに京都大学で農学博士の称号を持つ嘉田さんの目が届いているようである。

館内には、琵琶湖で生活をする人々が関係するあらゆるものが展示されており、なかには昭和時代に皆さんが使用してきた懐かしい電化製品やレコードなどもあり、別の意味でも貴重な博物館である。

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淡水魚もこんなに近くで見ることが出来て感動する
撮影:TOMIOKA Takumi (2010-06-27)

2枚の写真は、先日、ちょっと立ち寄ったときのものであるが館内は撮影が自由であり、デジカメでメモを撮るには好都合である。

2010年6月28日

夏の必需品「うちわ」

全てが電化されつつある中、人気がある純日本製の「うちわ」。一時は姿を消しつつあったが、ここに来て再び人気が出ている。コンピュータで世の中進化し便利になった反面、エネルギを多量に必要とする電化製品が今一度見直されつつあるようである。確かに、楽は認めるが電源を必要とするので、エネルギが無ければただのゴミである。

昔から日本には「うちわ」がある。この「うちわ」意外に長持ちをするし、飽きが来ないのである。デザインも自由に変えて好きなものを使えばよいし、簡単な手首の運動にもなる。風の強さは自分しだいであり、何と言っても場所を取らない。

お奨めの夏グッズであり、以前のようにもっと流行してほしい。

 

pip.jpg写真の「うちわ」のデザインは、横矢勲会長が自らテレビコマーシャルに出演して有名になったピップフジモトの物である。会長が亡くなられてからは、あまり見かけなくなったが、当時は会長が出演料無しでコマーシャルに登場して、「ピップエレキバン」のセリフを一言だけ喋るというユニークな宣伝で話題になったものである。

ホンダN360×トヨタパブリカ800

N360.jpgのサムネール画像のサムネール画像

1967年に発売されて爆発的な人気を集めホンダの名前が4輪の世界で一気に知れ渡った軽自動車がある。通称「Nコロ」と言われ、当時発売されていた若者向けの週刊誌プレイボーイに記事が紹介された。それまでに人気があったトヨタの国民車「パブリカ800」とは違い、形状も小さくて色も奇抜(最初は真っ赤のみ)で町を走り抜けるスピードの速い小さな移動体というイメージであった。当時は車体が赤い車は消防車以外にはほとんど無かった。パブリカが800cc空冷エンジンであるのに対して、エンジンは4ストローク強制空冷直列2気筒チェーン駆動SOHCで、オートバイ用の450ccエンジンをベースに開発された。ボア×ストロークは62.5×57.8mmのオーバースクエアで、排気量は354cc、最高出力は実に31PS/8,500rpmという、当時としては凄まじい高出力・高回転エンジンであった。この時代、軽自動車のエンジンは2ストロークが主流で、出力も20PS台前半がせいぜいであったことから、4ストロークで31PSを発生するN360のパワーは、もはや常軌を逸した水準であった。最高速度は115km/hを公称し、これも当時の軽自動車として最高レベルであった。

そんな当時、鈴鹿から名古屋に知人のパブリカでドライブしたことがあった。ちょうどNコロが新発売された頃で、まだ街中で見かけることは無かった。ある時、交差点で信号待ちをしていたら私たちの白いパブリカへ挑戦するように並列に真っ赤なNコロが来た。初めて見る車に何だこれはという驚きもあり、しばらく併走することとなったが、何と速いこと・・・・速いこと、とても並んで走ることが出来なくなり、途中で見失うこととなる。

そんな思い出の中、昨日、あるカタログに出会った。当時発売されていた物ではあるが、今まで本物を見るチャンスはなかった。

2010年5月 1日

西部劇の香りがする本物CHIPPEWA

chippewa01.jpg ---1901年、米国ウィスコンシン州チペワ・フォールズにて創業された靴メーカーチペワ社。このチペワというのはアメリカンインディアンのある部族を呼ぶ言い方であり、その他にも我々が良く耳にするアパッチ族などがある。ここの地で最初のブーツを作ったのがきっかけで、アメリカ本土で働く木材伐採人たちの足を完璧に保護する高品質ブーツとしてスタートした。やがて、この頑固なまでの品質主義を貫くことにより「CHIPPEWA BOOTS」の名がアメリカ全土に広がった。ちょうどその勢いで第一次世界大戦以降米軍に供給されることとなり、アウトドアの世界でも認知され続けていおり高い評価を得ている。
chippewa02.jpg 創業以来100年以上も靴作りを変えないチペワの靴には、最近の製品では感じることが難しい貴重な精神が残っている。今でもそのスピリッツに変わりなく、底が減っても何度でも靴底を張り替えて履くことが出来る。私たちが靴を履きだすとすぐに踵部分を中心に減りがひどく、上部の革に痛みがきていない物でも廃棄して新調する。多くの人のパターンである。チペワ社が生まれた1901年ごろは生活用品全てが貴重であり、アメリカの人々は自分たちの生活用品を購入するために苦労したものである。チペワの精神はここにある。使えるものは修繕してでもトコトン使う。ここが他の靴会社にはないこだわりである。

最も大事なこと、それは、チペワ社が最高の材料、最高の構造技術、そして最高の革新的技術のみを用いていることである。その結果が、疑いようのない最高のブーツを生み出している。 初めの頃はChippewaチペワは、きこり用ブーツだけを商品ラインナップとしてスタートしていた。二重と三重のレザーミッドソールからなり、アウトソールに手打ちでスパイクを打っており、そのlogger ロガーブーツは樵が川を下りながら丸太を製材所まで蹴り回すのに役立っていた様である。当時の技術水準を基礎付けたブーツで、その結果、Chippewaチペワは品質で評判を得て、その商品ラインナップをより広いブーツカテゴリーにまで広げ始めたのである。 過去100年は重要な変化を屋外作業用ブーツとスポーツ用フットウェアの品質への要求に答え、後に続く新たな要求に忠実に適合し続けた。Justin Brands,. Inc.ファミリー企業として、過去100年がそうだったように、品質と職人の技術がChippewaチペワの発展を先導し今もそれを続けている。

創業100年を経た現在でも、ワークブーツの本質を追究し続けるそのクラフトマンシップは決して変わることはありません。  商品が入っている箱にも表にはインディアンがデザインされている。(写真と文:TOMIOKA Takumi )

 

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2009年5月25日

「美山つづら弁当」は変わらない叶匠寿庵の定番

bentou1_2.jpg京都「哲学の道」を歩いて一服するには最高の「叶匠寿庵京都茶室棟」
撮影:TOMIOKA Takumi(2008/03/29)美山弁当

滋賀の和菓子屋が京都で店を出すには相当な苦労があったようである。
もともと、叶匠寿庵の創始者(先代)は滋賀県の外勤務の警官だったようである。それは昭和20年頃のことで、その後に、どうも警察官らしくないと判断され大津市役所の公務員に回されたらしい。以下、参考文献からの紹介記事である。

 市役所では、観光課の係長を経て定年退職の3ヶ月前に菓子屋を始めた。(昭和39年9月創業)その後30数年で年商50億円に成長するが、これは「神話」として今に伝えられている。当時は「みちしるべ」という菓子で、こだわりの高級あずきを使っていた。このことが評判になり、ある時、ベンツに乗って1万円のお菓子を買いにくる人がいた。一ヶ月後、女性2人がベンツで来て、菓子1万円を注文していった。それは松下幸之助の奥さんと正田美智子さん(現在の皇后陛下)のお母様で、何でも、持ち回りでお菓子を買っているとのことだった。
 その後、阪急デパートから出店依頼があり、一旦断ったが4年後に出店、高島屋、三越などへも出店の運びとなったらしい。当時は、三井寺というところに本社と製造部門があったが、手狭となり坂本というところに第2工場が作られた。しかし、交通渋滞で納品が間に合わないことが多くなったので、別の土地を探したがなかなか見当たらず、その当時の滋賀県知事である武村知事(のちに総理大臣)に相談したところ、昭和57年8月に、63,000坪の現在のここの土地を紹介され、58年7月1日に買収交渉が終わったようである。(ここまで参考文献から)

bentou2_3.jpg この土地こそ、滋賀県大津市大石にある「寿長生の郷」(すないのさと)であり、日本でも有数の和菓子工場である。もちろん、食事も出来るし、気の利いた茶室もある。徹底した和文化を追求した美の空間とも言える。駐車場を降りると、そこからはアスファルトも一切無く、砂利が引き詰められており、山全体に広がる小道の傍には、四季折々に異なる樹木が咲き、昔に逆戻りする気持ちが押し寄せる。そのころ私が訪れた時にも、先代さんが丁寧に、ゆっくりと「寿長生の郷」への思いを力説して頂いたことがある。カメラで撮影する私に一枚一枚の撮影で丁寧に被写体について語り、ご自分のコレクションでもある置かれた物や植物に時間を忘れて説明をして頂いたことが印象深い。

 この写真は、哲学の道にある「叶匠寿庵京都茶室棟」で頂いた「つづら弁当」である。予約が必要ではあるが、一日前にでも予約すれば受けてくれるので必ず行ける方は予約をされるほうがよい。食材にもこだわりがあるが、何と言っても食器には、ここ独自のセンスが伺える。配色にも気使いが伝わってくるので、単にカメラのシャッターボタンを軽く押すだけで難なく食欲をそそる弁当を写し込むことが出来た。

cherry 叶匠寿庵京都茶室棟

京都市左京区若王寺2丁目1番地
営業時間 10:00?17:00  定休日 水曜日

2009年5月 9日

30年前のSLブームが再び?

yamagutigou.jpg1979年8月1日津和野駅発行入場券
半分の大きさ(68mm×170mm)
(写真複写:TOMIOKA Takumi)

1979年と言えば日本でやがてSLが消えるということで全国各地でSLファンが急増した頃である。SL(蒸気機関車)が黒い煙を吐きながら悠々と走る姿は、当時まだ多く残っていた田園風景にピッタリとマッチしていたものである。

その頃の自動車道路の状況は、大都市周辺の高速道路は整備され100kmでの走行が普通であったが、山地で囲まれた中国地方のど真ん中を走らせる「中国自動車道」の整備は遅れており、1979年この入場券を欲しさに三重から山口県萩まで走るのに、全線高速とはいかなかった。確か、千代田インターが最終であり、そこから西は2号線へ戻る必要があったのである。そのために、記念号「やまぐち号」の写真を撮るには、相当な努力を必要とした。

現地に到着した頃には、既に発車直後であり、一般道を車で追いかけたものである。そのために、この入場券も津和野駅発行のものしか入手出来なかった。津和野駅に着くと、すでに列車は到着していて、ホームには雄大なピカピカの物体が寝そべっていた。

山口県を走る小郡?津和野は人気の高いC57とC58が使用されていた。両方の車輌ともSLファンには人気が高く、絵になる。そのためにSLファンたちはこのC57を求めて各地で撮影場所を探し歩いたものである。

当時の鉄道写真家といえば、広田尚敬(ひろたなおたか)と言われるほど広田さんは多くの路線での素晴らしいSL写真を残している。それは単にSLの姿ではなく、SLがもたらした当時の日本の情景も写しこんでいて、ある意味貴重な記録写真となっているのである。現在も幅広くご活躍であり、既に息子んさんも若手鉄道写真家として踏み出されている。

そういった広田さんの努力もあり、再び、日本に鉄道ブームが到来して来たようだ。特に、最近はNHKハイビジョンで放送された「全国20000km鉄道の旅」では、人気俳優の関口智弘(せきぐちともひろ)さんが全国を巡回して一気にそのブームがやってきたようである。再放送も頻繁にされておりファンもどんどん増えている。

また、この夏にはJRがD51を走らせる計画があり、今年はそのスピードが加速しそうな気配である。

(参考)
C57
昭和12年にC51形式改良近代化機として誕生し、北陸線、鹿児島線、東北線などの幹線の旅客列車けん引に使用されました。形態は勇美で、「貴婦人」の愛称をもち、国鉄の機関車のうちもっともスマートです。(製造201車輌)

C58
昭和13年に標準中形客貨用機関車として誕生し、輸送量の多いローカル線に使用されました。8620形式に劣らない高速性能と9600形式に匹敵するけん引力を兼ね備えた万能機関車です。(製造427車輌)

2009年5月 3日

ソニーアルファ900とはこんなカメラ

sony90001.jpgソニーの高級デジカメが本格化したと思ったら、すぐに世界でも類の無い画素数でアルファ900を発売した。すでに5ヶ月となる。早めに手に入れて現在ほぼ1000枚ほど撮影したが、レンズは700の時から購入していないので、まだ20mmF2.8の一本である。

このカメラにした大きな理由は、視野が100パーセントでしかも20mmの写角(しゃかく)がそのままで写る。このことは昔からのレンズを使い慣れている人にとっては重要なはずである。
それともう一つ、解像度である。世界で始めての2460万画素とは、フィルムカメラには及ばないが、実用上何らフィルムカメラと変わらない。しかも、こちらはフィルムを使わないので化学反応などの色処理も無く、肉眼で感じたそのものを定着し、途中でゴミやホコリが混ざることも無い。



sony90002.jpgよく見るとアルファ700より一回り大きいが、すぐには気が付かないほどの形状である。ただアルファ900の方が、持ったときにずっしりとして重く感じる。それでも、他社の物に比較するとかなり軽く感じる。

左の写真を見て判ると思うが、上部三角プリズム部分には内臓ストロボが無く、フラッシュは専用の物を付属品として用意している。早く言えば、以前からのカメラのように基本のものだけしか本体には付いてなく、フィルムがCCDに変更されただけというイメージが強い。逆に、こんなカメラを探していた人も多い筈である。

ボディを手に取った時に、すぐに感じることが出来るのは700と同様、手の中で石ころを転がす感覚だ。それほど余分な突起が無くて扱いやすい。操作性も700とほぼ同じで、液晶部分が少し大きくなった程度である。

sony90003.jpg





撮影時のセットも一発でOKであり、目的のマークにダイヤルを回せば最適のモードになり動作する。高級カメラを使い慣れている人には少し物足りないと思うが、これに慣れると、便利さが普通になるのには驚いた。例えば、スポーツもモードに合わせると、シャッター優先の最高速度モータドライブも自動的にセットされる。毎秒、5コマはかなり速写を感じる。

まだツアイスのレンズを装着して撮影していないが、カタログによると可なりのものの様である。今後の楽しみの一つにしたい。

2009年1月16日

20年に一度しか渡れない宇治橋の仮橋

ugibasi.jpg撮影:TOMIOKA Takumi (2009/01/01)

今年は伊勢神宮で大きな行事がある。現在2013年の遷宮に備えて周囲の建造物の建て替えが行われている。その大イベントが宇治橋渡初め(わたりはじめ)である。宇治橋とは伊勢神宮の中を流れる五十鈴川に架かる橋のことで、神宮へお参りする時には必ずこの橋を渡らないと入れない。もちろん、昔から同じ場所に架けられて現在でも20年に一度交換されている橋のことである。

これらの行事は正しくは神宮式年遷宮(じんぐう しきねん せんぐう)といい、 神宮では、20年ごとに内宮と外宮の正殿など正宮・別宮の全ての社殿と鳥居を建て替え、御装束・神宝も造り替え神体を遷す。式年遷宮の4年前には宇治橋が架け替えられる。これは戦後のことらしくそれ以前は同時に行っていたらしい。

この式年遷宮は690年に始まり、一部無かった時代があったが前回1993年の第61回式年遷宮まで続けられてきている。 今の式年遷宮にあたっては2005年から第62回式年遷宮の各行事が進行中で、2013年には正遷宮(神体の渡御)が予定されている。

また、この写真に関係する行事として宇治橋渡り始め式(うじばしわたりはじめしき)が開催されるが、 前回は1989年11月3日に行われ、その20年後ということで今年の2009年11月3日となる。この式は 橋の安全祈願を目的としたもので、式の日には 神領地から選ばれた「渡女(わたりめ)」を先頭に夫、子夫婦、孫夫婦が渡り初めを行い、全国から選ばれた三世代揃った夫婦が続く。

この式典に備えて、2月1日までは旧宇治橋(現在の橋)が渡れるがその後は取り壊しの工事に掛かるため渡れない。その日までは仮橋(かりばし)と宇治橋の両方を渡れるが、これは20年に一度しか見れない光景である。写真はこの元旦に仮橋を撮影したもので、参拝が終った人が帰りにこの橋を渡っていた。

今後しばらくは伊勢神宮内では2013年の遷宮に備えての行事が続くので興味深い。

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